越前若狭歴史回廊

 朝倉宗滴

あさくらそうてき
朝倉宗滴(教景) 文明九年(1477)〜弘治元年(1555)

 父は戦国初代英林孝景、母は若狭逸見氏養女(孝景後室、桂室永昌)
 はじめ小太郎、太郎左衛門尉。のち出家して宗滴沙弥を名乗る。
 父孝景は、応仁の乱に乗じて、越前を守護斯波氏に代わり実質支配していた名門の守護代甲斐氏から奪い、越前守護代に就任。朝倉氏が戦国大名として転身を遂げる基礎を確立した。宗滴はこの英林孝景の末子にあたる。

 歴史に登場するのは、文亀三年(1503)の敦賀城主・朝倉景豊の謀反である。景豊の妹を妻としていた宗滴は一味に誘われ、拒否できず、一時竜興寺に入り出家し 逃れようとしたが、最後は、朝倉当主貞景に謀反を通報。景豊は自害に追い込まれた。
 この功績により敦賀郡司となり、以後、常に戦場の第一線にあって三代貞景、四代孝景、五代義景に軍奉行として仕え、戦い続けた。

 永正三年(1506)、越前史上最大の戦いが起きる。能登・越中一向一揆と越前牢人連合軍三十万の大軍が加賀から侵攻して、坂井郡に陣を敷いたのである。宗滴は大将として、九頭竜川にてこれを迎え撃ち、撃退した (九頭竜川大会戦)。
 永正十四年(1517)、幕命で丹後に出陣し、若狭守護・武田氏を助けて、若狭逸見氏と丹後守護代延永氏の反乱を鎮めた。
 大永五年(1525)には近江小谷へ出陣し、六角氏と浅井氏の間を調停。
 大永七年(1527)五十一歳の時、近江に逃れていた将軍足利義晴と細川高国の要請に応じ、十一月十三日上洛を果たし、十九日下京西院口合戦と将軍本陣東寺の防衛戦に勝利した (大永七年の京出兵)。

 享禄四年(1531)には、加賀一向一揆の分裂(享禄の錯乱)に乗じて手取川まで侵攻するも、この時は状況判断のうえ撤退している。
 この年頃、養子の景紀に敦賀郡司職は譲ったものの、軍奉行はその後もつづけ、第一線で戦い続けた。
 天文十三年(1544)には、尾張織田軍と連携して美濃に出陣、斉藤道三と戦うとともに、井口城下を焼き払った。

 最後の出陣は弘治元年(1555)の加賀侵攻である。越後上杉氏と連携して加賀に出陣、七月には大聖寺を中心に、八月は敷地・菅生などで戦い、連戦連勝で一揆勢数千を討伐したが八月十五日陣中で病を得て急遽帰国し、九月八日一乗谷にて病没した。
 「武者は犬とも言え、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」と言い切った朝倉宗滴の戦いに明け暮れた生涯は、七九才で幕を閉じた。
 法名月光院殿照葉宗滴大居士

 なお彼が語ったものを、家臣の萩原八郎右衛門尉宗俊が書き留めた「朝倉宗滴話記」を残した。
 

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