越前若狭歴史回廊

朝倉景紀

あさくらかげのり
朝倉景紀(?〜元亀三年)

 朝倉景紀は朝倉貞景(戦国三代)の四男として生まれ、幼名孫九郎、九郎左衛門尉と称し、後に敦賀郡司の朝倉教景(宗滴)の養子となった。享禄年間に教景(宗滴)から敦賀郡司職も譲渡されている。
 彼は、武略にも文芸にも優れており、武略の面では大永七年の京出兵や享禄四年の加州出兵などにも養父教景(宗滴)とともに従軍している。

 大永七年の京出兵の時には、大激戦となった西院口(川勝寺口)と東寺の合戦で三好、柳本、畠山軍の猛攻を押し返し、将軍本陣を守り抜く活躍をみせ、二六日には景紀に管領細川高国の感状が、翌二七日には養父教景(宗滴)と景紀 の二人に将軍義晴から感状がだされている。また、対陣中には三条西実隆と文芸面で交流もしている。

 永禄三年若狭守護武田義統の部将粟屋勝久・逸見昌経らが義統に背いた時には、守護武田氏の要請で、翌四年五月若狭に総大将として出陣し、逸見勢拠点砕導山城を陥して逸見を追ったのち、八月帰陣した。

 文芸面では例年連歌会を興行して、永禄五年の一乗谷の曲水宴の歌会にも参会し、詠んだ歌が「朝倉始末記」などに残っている。

 景紀の郡司として活躍は永禄年間のはじめまでで、この頃には嫡男孫九郎景垙に郡司職を譲った。しかし、永禄七年九月二日、景垙が加賀の陣中で朝倉景鏡と大将争いに敗れて自害すると景垙の嫡子がまだ二歳であったため、景垙弟景恒に敦賀郡司を継承させ、景紀自身は孫で景垙の二歳の嫡子(七郎)をともない、知行所であった今立郡川島庄(現鯖江市) に朝倉観行院(光厳寺)を構え、そこに隠居した。

 永禄九年(一五六六年)九月足利義秋(義昭)が朝倉義景を頼った時、景紀は子の景恒が敦賀郡司(城主)を努めていることもあり、敦賀に出向き義昭を迎え、また景恒は翌永禄十年十一月義秋の一乗谷下向の案内役も勤めた。
 このため、十二月足利義秋(義昭)が朝倉館を訪問した際には、景紀は義秋から頭巾を免ぜられて同名衆の最上座となった。

 元亀三年(一五七二年)五月一日、朝倉観行院(光厳寺)で没したとされる(七十二歳?、法名大機伊冊 いさく )


参考
大永七年の京出兵

 

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