越前若狭歴史回廊

 

竜興寺跡 (朝倉宗滴、朝倉義景ゆかりの大刹)
一向一揆で消失した朝倉氏ゆかりの大刹
       福井市八幡町(本郷地区) 地図はここ

 興寺は、永享初年に希明清良を開山とし、安居代官藤原清長によって創建されたと伝えられる曹洞宗の寺である。朝倉氏との関係は深いが、朝倉氏滅亡後の天正 2年6月18日に一向一揆に放火され灰燼と帰し廃寺となった。
 かつては「本郷の竜興寺」「八幡の竜興寺」として知られ、最盛期には七堂伽藍を誇った名刹である。なお朝倉氏との関係で著名な福井市足羽の心月寺は竜興寺の末寺にあたる。

 跡は本郷地区の八幡集落から林道をすすみ、さらに谷川沿いに20分程度登った海抜220mの山頂にある。「越前国名勝志」には「本郷竜興寺ノ跡 小豆坂ノ奥山ノ上ニ有リ」とみえる。
 案内板などは一切無く、道は途中判然としない所もあるが、近づくと「石積み」の跡もあり、うっそうとした林のなかでもそれらしい雰囲気が漂い、墓石や墓塔が見えてくる。但し、夏草の時期は登るのは難しいと予想され、また、一人で行くのは控えたほうが良いと思われる。

 興寺は朝倉始末記にも何度か登場するが、戦国朝倉氏初代にあたる英林孝景の子で 、五代義景の時代まで永年にわたり軍奉行を務めた朝倉宗滴(教景)は、若い頃この寺で出家し修行し、その後に敦賀郡司に抜擢されたのである。
 実は、文亀3年(1503)に敦賀城主・朝倉景豊は宗家への謀反を企てる。景豊の妹を妻としていた宗滴(教景)は当然一味に誘われ、拒否できず、迷った末、一時竜興寺に入り出家し逃れようとしたも のである。しかし、最後は、朝倉当主貞景に謀反を通報し、景豊は自害に追い込まれた。
 この功績により、後に敦賀郡司となったのである。

 禄四年、朝倉義景は一万余人を率いて三里浜(大窪浜)で「犬追物」を興行するが、その際一乗谷を出てこの寺で一泊したことでも有名である。
 また、朝倉氏滅亡後は逃れた二人の娘がここに匿われたことでも知られており、最後の当主義景との関係も深い。
 
 跡に残る墓塔(宝篋印塔)には「永正一七年六月五日 永仲宗長」とあるが、竜興寺は朝倉氏の庶流で北ノ庄を預けられた土佐守家(北ノ庄氏)の菩提寺であり、永仲宗長とは朝倉土佐守景頼その人である。
 延徳3年3月3日、管領細川政元が随員を従えて京都から越後へ向って出発し、途中越前を通過するが、この旅に同行した冷泉為広が詳細な旅日記を残している。それによると細川政元一行が越前敦賀に入るのは 6日のことで、翌日敦賀郡司の朝倉景冬に送られ国府(武生)に至った。途中今庄で慈視院光玖(孝景弟)が出迎えており、翌日北ノ庄に向かう。そして8日には北ノ庄の朝倉土佐守の館に宿泊し、一乗谷から出張した朝倉当主貞景からの饗応を受けている。
 この朝倉土佐守こそ、竜興寺跡に現存する墓塔(宝篋印塔)の主である。
 


 ま寺跡は、そこに大寺があったことを全く感じさせない杉林となっており、ゆっくりと時代を刻んでいる。

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初出:福井商工会議所報「Chamber」2003年3月号(一部加筆しております)

 
 


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