越前若狭歴史回廊

 大永七年の京出兵(京 ・朝倉氏ゆかりの地を訪ねて)


 大永七年、近江に逃れていた足利義晴を推戴する管領細川高国は、京奪還に向けて朝倉氏に派兵を要請した。戦国四代朝倉孝景は戦国大名の常として幕府権威無視できず、これに応じ十月朝倉教景(宗滴)を総大将に一万の軍勢を派遣した。

 将軍、細川、六角、美濃の軍二万五千と合流し、十月十三日京へ入り、朝倉軍は建仁時に陣をしいた。

 十月二四日には、朝倉氏の軍勢は反高国の三好勢や柳本勢と桂川付近で激突する。

 また十一月十九日には、今回の京都派兵で最大の戦いとなる川勝寺合戦、東寺攻防戦を少なくない犠牲を払いながら戦い抜き、戦功をあげている。
この日、南部から進攻すると見せかけて、三好軍は丹波柳本勢力とあわせ北部から攻撃を開始。将軍の本陣が置かれた東寺に猛攻を掛けるも、朝倉氏は二百人の犠牲を出しながら千余人を討ち取り東寺と将軍を守りぬいた。また、西院口川勝寺付近でも突入を図る三好軍を押し返した。

 直後、十一月二九日越前から数千の援軍が京に入り、三好・柳本連合軍も手を出せない状況を作り出した。

 この戦いで朝倉教景(宗滴)には、将軍義晴の感状が発給された。

 しかし、翌大永八年三月六日越前兵は一人残らず京から消えた。恐らく細川高国と朝倉教景(宗滴)の間で意見の衝突があったものと思われる。

 翌年五月、細川高国は越前に下向して、再び朝倉氏の出兵を求めたが、朝倉氏は応じることはなく、高国は西国に支援を求めることになる。

朝倉教景(宗滴)についてはこちら

 

 

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