越前若狭歴史回廊

 一乗谷炎上( 信長軍の越前進攻と朝倉氏の滅亡)

 

 織田信長の支援で将軍職に就いた足利義昭でしたが、蜜月は長くはつづかず、やがて武田信玄や浅井・朝倉、本願寺勢力を巻き込んで、反信長包囲網の形成に乗り出します。
 朝倉氏も姉川の戦いの後、義景本人が近江・坂本まで出陣し、叡山などと連携し、一時は京の信長勢力を脅かすなど活発に活動、信長の小谷城攻めでも、従兄弟の景鏡と共に出陣を繰り返しています(詳細は元亀争乱で別に取り上げます)。
 一方の信長は、正攻法の戦いとは別に、有力武将の離反工作を進め、前波九郎兵衛など朝倉譜代の家臣を信長方に寝返らせるなど、朝倉内部の崩壊を進めていきます。
 織田と朝・浅井のにらみあいは、この後も様々な場面で起こりますが、反信長勢力の巨頭であった武田信玄が元亀四年四月没すると、一気にバランスは崩れていきます。

プロローグ

 反信長勢力の中心であった武田信玄の急死は、信長包囲網そのものの崩壊となってあらわれます。
 元亀四年(1573年)七月、ついに信長は足利義昭を追放し、京の室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれてしまいます。朝倉 ・浅井は孤立し、両軍の士気は急激に低下、勢い のある信長軍とは対照的に衰亡の道を走り始めます。
 信長は朝倉・浅井内部の動揺を見ぬき、離反工作を進める一方、浅井・朝倉攻撃のため近江に出陣します。浅井からの救援要請を聞き義景は、一族の朝倉景鏡や魚住景固など重臣に出陣を命じました。ところが、なんと度重なる出陣での所労を理由に彼らはこれを拒否、やむなく義景自らが総大将となり、7月17日に一乗谷を進発します。
 厳しい戦いが予想される中、悲壮な出陣になったといわれています。

義景/最後の近江出陣

 7月18日には敦賀安養寺に着陣し、ここにしばらく陣を張ります。義景が陣所とした敦賀安養寺は残念ながら何処かわかっていません。敦賀市外の阿曽地区に同名の安養寺がありますが、この安養寺とは無関係です。
 さて、この間浅井の武将数名が信長方に寝返るという事態も発生し、義景はますます窮地に追い詰められます。
 浅井氏は朝倉軍の江北への進発を要請してきますが、形勢不利な中で出撃するかどうか軍議は分かれます。しかし、8月6日義景の判断で、多くの反対を押し切って柳ヶ瀬、さらに木ノ本の田上山まで軍を進めました。 その数2万といわれています。信長は朝倉と浅井の合体を牽制するため山田山に陣を敷きます。
 ところが、8月12日になって、江北で朝倉氏の前線基地となっていた大獄(おおずく)山城と丁野(ようの)城が信長軍の猛攻にあって陥落してしまいます。

   

 大獄の麓(焼尾)で浅井軍が守っていた砦の守将が投降したのを契機に、雨の中、信長自身が小林六左衛門、斉藤刑部少輔其の他豊原寺西方院など数百人が守る大獄を電撃的に攻撃、これを落とすとすぐに 、大獄城と小谷城の真下にあり、平泉寺の玉泉坊・宝光院が守備する丁野城も降伏に追い込みます。
 これで完全に朝倉軍本隊と小谷城は分断された状態となり、これを見て浮足立った朝倉軍は、翌13日、態勢を立て直す間もなく 一斉に敦賀に向って退却しはじめます。

刀禰坂の戦い

 勢いで勝る織田軍はこの時を待っており、息をつかせず追撃に乗り出し、越前と近江の国境にあたる刀禰坂で退却する朝倉軍に追いつき、凄惨な掃討戦がここから敦賀の疋田まで繰り広げられました。

 尤も、あまりに早い事態の進展に、 織田軍も充分に対応できず、信長から追撃の用意を命じられていた滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、蜂屋頼隆、 木下秀吉らも油断し、義景と朝倉軍の追撃を最初に仕掛けたのは信長自身であったため、叱責を受ける羽目になっています。

 他方、朝倉側にも忠義の武将はおり、殿(しんがり)を務めた山崎吉継をはじめ朝倉掃部助など少なくない武将が、主君義景を一乗谷に逃がすため、追撃を受けながら反転し、必死に踏みとどまり、大激戦とな りました。吉継らはよく戦い一度は信長軍を押し返しましたが、浮き足だち逃亡する軍を統制することは不可能で、大半は山頂付近にて討ち死にしてしまいます。ますます勢いを増し峠を駆け下りる 織田軍に 、次々と朝倉兵は討ち取られ、朝倉軍団の中核部隊はほぼ壊滅してしまいます。
 記録では、朝倉方3千余りが討ち死にしたとされています。
 この時、岐阜から追い出され義景のもとに身を寄せていた斎藤道三の孫で、前美濃国主の斎藤龍興も討ち死にし、斎藤氏も滅亡しています。
 また、何とか疋田城まで退いた朝倉軍も、14日早朝からの織田軍の猛攻に、朝倉景健や景胤、詫美越後が果敢に切り込みますが、やがて壊滅していきます。
 景健、景胤はかろうじて脱出に成功しますが、この間の戦闘で討ち死にした主な武将は、朝倉治部少輔・朝倉掃部助・朝倉権守・朝倉土佐守・山崎長門守・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・ 詫美越後・三段崎六郎・土佐掃部助・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門などとされています。

 ところで、刀禰坂は近江との国境にあたり、近江側では倉坂峠とよばれており、今では、北陸自動車道が通って 、一気に柳ヶ瀬まで抜けることができますが、古代から交通の要所であったところです。
 ここから疋田までの間で大激戦が展開されたわけで、この戦闘で防衛拠点となった疋田城は、いまもその遺構を疋田の地に留めています。
 疋田城跡は小高い台地のようなところにあって、説明板のある広場にはゲートボール場があります。「疋壇城跡」とかかれた石碑は、その上の畑の中の石垣で囲まれた一角にひっそりと立っています。

一乗谷炎上

 さて、刀禰坂の戦いで、将兵のほとんどを失ってしまった義景はわずかの近習に守られて、府中(現武生市)を経て、朝倉街道に入り一乗谷へと敗走します。まさに命からがら身一つと言う状況だったようです。一乗谷に帰陣したのは、8月15日でした。
 主君を迎えたのは僅かの側近達で、もはや最後とばかりに愛児愛王丸とともに自刃して果てることを決意しますが、側近達と従兄弟の大野郡司朝倉景鏡が、自分の支配地である大野での再起を勧めるため、これを受け入れたとされています。
 そして翌16日、朝倉氏の氏神である赤淵大明神へ参詣した後、大野へ落ちのびていきます。大野へ逃れたのは義景とその子愛王丸、義景の母光徳院、愛王丸の母小少将と僅かの供回りの侍であった。

 一方、義景が去った一乗谷は、逃げ惑う人々で阿鼻叫喚の騒ぎとなり、町は大混乱となったようです。一乗谷には1万人 を超える住人が住んでいたといわれていますが、ゴーストタウンと化してしまいました。
 信長は、朝倉との戦いに一気に決着をつけるべく一乗谷へ軍勢を派兵、これを焼き払います。神社仏閣、居館から町屋に到るまで 朝倉五代の都として繁栄を誇った一乗谷は三日三晩燃え盛り、20日にはすべて灰燼に帰しました。
 山城の一乗谷城は、一度も戦闘に使われることなく放置され、廃城となったのです。

 そして、一乗谷はこの時の信長の破壊によって土に返り、幸か不幸か、昭和42年に発掘調査がおこなわれるまで、400年余り長い眠りにつくことになります。
 

信長本陣/府中龍門寺

 信長はどうしていたでしょうか。一旦敦賀に入って、休んだ信長は、意気揚々府中(武生)に入り、18日には龍門寺に着陣しました。
 信長が滞陣した武生の龍門寺は、国道365号と県道菅生武生線の交叉点から一本西の小路を北に入ったところに在ります。
 門の横には、龍門寺城跡と書かれた説明板も建っており、この時の信長は、ここから動かず、一乗谷の破壊と朝倉氏の攻撃を指揮していました。

大野での義景の最後

 一方、朝倉景鏡の手引きによって大野へ逃れた義景は、犬山城のふもと洞雲寺(大野市浦瀧)に身を寄せます。ここで再起をはかるため、平泉寺衆徒の同心を得ようとしますが、すでに木下秀吉の手が廻っていて願いを果たすことは適いませんでした。
 義景と愛児愛王丸などが最後の日々を送った洞雲寺は、犬山からの尾根が大野平野に落ちこむような地形の突端に今もあり、寺の正面には、古びた由緒ありげな楼門が建っています。境内も山からの森林の続きで鬱蒼とした雰囲気となっています。 

 19日になると、景鏡は義景に防御の都合を言い立て、六坊賢松寺への移動を勧め、大野山田の庄にあったといわれるこの寺に移ります。
 そして、一乗谷が燃え尽きた20日、景鏡が突然裏切り、兵200を六坊賢松寺へ向け、義景主従を囲みました。義景はもはや自分の命脈の尽きた事を悟り、自刃して果てました。四十一歳の生涯でした。
 辞世の句は、
   「七転八倒 四十年中 無他無目 四大本空」
 と伝えられています。
 最後の供をしたのは、近臣の鳥居景近、高橋景業など僅かのものでした。
 また、子の愛王丸や小少将、光徳院(義景母)、供の斎藤兵部少輔らは捕らわれの身となりました。

 朝倉義景が自刃して果てた六坊賢松寺の正確な位置はわかっていません。最初に墓の建てられた曹源寺に此定する向きもあります。
 大野市役所の西側、住宅地の真東に墓所がありますが、これは江戸期に一旦曹源寺に建てられた後移築されたもので、どちらかと言えば供養塔といった趣ですが、こじんまりとした広場に、一族や最後まで付き従った家臣の墓とともに静かに安置されています。

エピローグ

 義景の死後、朝倉景鏡はただちに信長に降伏。朝倉一族と重臣たちの大部分も屈服し、信長は戦闘のないまま越前一国を容易に手に入れます。この後、信長は義景の首を受け取ると ともに、遺児愛王丸 、小少将、義景母光徳院を今庄・帰里で処刑、朝倉本家の血筋は途絶えました。
 朝倉氏を滅ぼした信長は、越前支配を奉行人と朝倉の遺臣達に任せ帰陣しますが、これは越前支配の序章にすぎませんでした。
 この後、朝倉氏と同心していた一向宗勢力が勢いを盛り返し、武家支配秩序の破壊に突き進み、越前は新たな戦乱の様相を呈してきます。
 越前における「中世の終焉」は信長軍の侵攻による朝倉氏の滅亡ではなく、この民衆による武家支配秩序の破壊によってもたらされることになるのです。

 信長は、朝倉氏の滅亡により難なく手に入れた越前支配の構図が崩壊し始めたことに業を煮やし、再び越前に侵攻。
 ついに越前全土の民衆と信長軍が激突という、血で血を洗う戦いへと突入することになるのです。
 

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主サイト「越前若狭歴史回廊」の「新越前若狭城跡考」に、信長が陣を置いた竜門寺城跡、 朝倉氏の最後の抵抗地疋田城跡を掲載しています。

この後の信長の再侵攻と越前一向宗の戦いは、主サイト「越前若狭歴史回廊」の「信長、越前を支配す!(下) 〜織田軍と越前民衆との戦い 〜」 を参照下さい。


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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2001年1月号に掲載した「信長軍団越前を支配す(上)」の 一部を改稿したものです。
無断転載はお断りします。

 

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