越前若狭歴史回廊

   

元 亀 争 乱
 

   

元亀元年の戦い ー 天下は朝倉殿に(1)

[手筒山、金ヶ崎の戦い]



  一代の傑物英林孝景(戦国初代)の時代も遠い昔となり、朝倉氏も五代義景の時代になると、戦国の世でありながらも、一乗谷には安定した時代が訪れていた。
 当時の一流の文化人といわれた人々も、京の戦乱と荒廃を避け一乗谷へ来訪し、一乗谷は当代随一の文化都市となっていた。
 一方、時代は戦乱の世から、統一へと動き出す。
 甲斐には武田信玄、越後には上杉謙信、そして尾張には新興の織田信長と、実力ある戦国武将があらわれ天下統一へ虎視眈々と狙いを定めていたのである。
 
 
プロローグ

 室町幕府は、この時代になってもしたたかな生命力を有しており、信長の先駆者として登場した三好長慶ですら、何度も軍事力で幕府を破りながら、最後は将軍の権威に敗北、臣従を強いられていた。
 とはいえ、室町幕府に昔日の面影はなく、永禄八年(1565年)には十三代将軍足利義輝が松永久秀らの謀反で殺害されるという事件が発生。
 義輝の次弟で、僧籍で奈良にいた覚慶は脱出し、還俗して義秋と名乗り、近江、若狭を経由して永禄十年(1568年)朝倉義景のもとに身を寄せた
 翌年には一乗谷で元服し、名も義昭と再度改名する。
 義昭は、一乗谷で義景から饗応を受け歌の会などの遊興に耽るが、頭の中にあったのは将軍として京に上ることでああった。朝倉氏の武力を背景に上洛を夢見ていた義昭も、義景にその意欲がない ことに失望し、前年に美濃攻略に成功した信長から岐阜への動座の要請があると、受諾することを決意、九ヶ月滞在した一乗谷を出て信長のもとへと去った。
 
 新興の織田信長は、義昭を奉じるとすぐに行動開始、永禄十一年(1568年)九月には、一気に上洛を果し、畿内を軍事力によって平定、幕府の再興と 将軍義輝の御所でもあった武衛邸跡に将軍邸も造営された。

信長、越前へ侵攻

 将軍の推戴を天下統一の足がかりと考えていた信長は、将軍権力を楯に義景の上洛を強要、これを信長の謀略と見た義景は、拒否すると同時に京、若狭への国境の守の強化に乗り出す。
 信長は朝倉氏の上洛拒否は織り込み済みで、これを朝倉討伐の口実にと考えていた。
 元亀元年(一五七〇)二月末に上洛した信長は越前侵攻の準備を進め、一応名目は若狭武田氏被官武藤氏討伐として、四月二十日同盟の徳川家康軍を加え、大軍で若狭(本音は越前)を目指し坂本を出陣した。出発時は織田軍は三万程度であったが、若狭衆など各地から集まった軍勢は 、敦賀では総数で十万に達したともいわれているが正確な数はもとよりわからない。
 この頃若狭守護であった武田元明は朝倉氏に拉致(保護)され、一乗谷に居住していたため、小浜の武田一族や一部の被官人が頑強に反信長にたっていたものの、重臣の一部は信長に通じており、織田・徳川連合を 倉見峠で出迎えた。いよいよ織田軍と、朝倉氏の戦いの火蓋が落されることになるわけで、世に言う「元亀争乱」の始まりである。

 そのまえに、先ずはその進軍跡をたどってみよう。
 信長は、湖西を通って、若狭から敦賀に一気に軍団をすすめた。現在も街道沿いにはこの時の様々な言い伝えが残っており、二二日には近江から若狭に抜ける熊川宿(上中町熊川)に入った。現在は国道三〇三号が通っており、最近宿場町らしく修景事業がおこなわれ、往時もかくやという雰囲気に整備されている。ここの得法寺には、朝倉攻めのため泊まった家康が、敦賀へむけ出発の際腰掛けたという松(家康腰掛の松)が伝承として残っている。

▼熊川宿現況 ▼得法寺

 二四日には越前との国境にある国吉城(美浜町佐柿)にまで進み、信長はここで軍議を凝らしたとされている。
 この城は若狭守護武田氏の譜代の臣であった粟屋越中守勝久が城主となって、永年朝倉氏の若狭侵攻に対抗していた城で、この時信長はその功績を賞賛したといわれている。
 国吉城跡へは、国道二七号の椿トンネルのすぐ南のわき道を東に入り南進すると、それが旧丹後街道で、少し進むと突き当たり、角に美浜町教育委員会の立てた国吉城説明看板が設置されている。

▼佐柿集落端の案内板 ▼国吉城主郭の城跡碑


 
敦賀 手筒山、金ヶ崎の戦い

 さて、いよいよ敦賀へ。
 信長は自信満々兵を推し進め、手筒山城、金ヶ崎城を正面にみる妙顕寺に陣を構える。義景も迎え撃つべく一乗谷を出発するも、準備に手間取り進む速度は遅く、二五日、手筒山は要害の地であったが、信長軍 は手薄な裏手の湿地帯がわから猛攻を加え、激戦となり、双方で数千人を超える死者を出してついに陥落、守備にあたっていた金ヶ崎城主(敦賀郡司)朝倉景恒は金ヶ崎城へ陣を引いた。
 信長は城を明渡すよう景恒を説得、翌二六日ついに開城させることに成功した。同じく疋田氏が守る疋田城もこの時開城に追い込み破却をはじめた。
 信長が陣を張った妙顕寺は、敦賀市元町に在り、ちょうど東側正面に手筒山と金ヶ崎が壁のように奪え立つ敦賀市内のど真中という立地である。現在でも寺の境内は結構広く、当時の規模の大きさを彷彿させてくれる。この地に十万を超える軍団が集結している様を山城頂上から目の当たりにして、朝倉景恒が開城したというのも無理からぬことであった。

▼金ヶ崎麓の金ヶ崎宮 ▼手筒山山頂

 妙顕寺からだと、金ヶ崎城跡登り口までは数分の距離にある。車で登る事はできないが、駐車場から山頂の金ヶ崎城祉までは十分程度で、道もきれいに整備され、ちょっとしたハイキングコースといった雰囲気である。
 ここから手筒山の項上までは、尾根伝いに20分ぐらいの道のりで、結構アップダウンもあって登りごたえがある。平坦になっている頂上からは敦賀市内や金ヶ崎、敦賀湾から敦賀半島まで一望できる。
 疋田城はいまでも主郭石垣など周辺には古城の面影が強く残っている(但し、城内部が畠になっているのは少しがっかりだが)。

「金ヶ崎の退き口」

 そして、一部の部隊は木の芽峠を越え、いざ朝倉の本拠・一乗谷へ、という矢先の二八日、信長のもとに江北の浅井長政が反旗を翻し、海津に進出、疋田方面から織田軍の背後を塞いだという報が入った。朝倉氏と浅井氏は永年の同盟関係にあったが、妹である市を長政の下へ嫁していた信長は、義弟浅井長政が朝倉に味方するなどとは予想もしていなかった事態であった。

  残っている発給文書や江北にある朝倉氏の築城状況からみて、最近の研究では当時の朝倉氏と浅井氏はかつての同盟関係ではなく、浅井長政は朝倉義景麾下に属する武将(郡司級)とする見解が有力視されている。
 また一乗谷には他の朝倉氏重臣と同様、浅井氏の館も在ったとされる。

 しかし、ぐずぐずしていると退路を絶たれて、「袋の鼠」となりかねない状況に陥り、殿(しんがり)に木下秀吉を置き、朽木氏の支援を得て、ほとんど身一つで命からがら敦賀から朽木越えで京都へ脱出する羽目になる。
 世に言う「金ヶ崎の退き口」である。
 三十日、京に辿りついた時、信長の供回りは十人程度であったといわれている。
 
 一方、二八日敦賀に到着した朝倉義景率いる軍は二万であったが、すでに信長は逃亡したあとで、追撃戦では僅か千三百程度討ち取ったに過ぎなかった。
 歴史に「もしも」は無いが、この時、小浜で反信長の急先鋒であった武田信方や朝倉・浅井の連携がもう少し巧妙であれば、信長を討つ絶好の機会であったことは間違いない。
 この後、朝倉義景は朝倉景鏡を大将として、二万余の軍を江北に送り、信長勢力に打撃を与えるとともに、朝倉軍は美濃の垂井・赤坂まで進攻したため、信長は危険を回避するため 、東山道は通らず、迂回して伊勢経由で五月二二日岐阜に帰った。それでも途中の千草峠では狙撃されるというおまけまでついていた。

信長軍、小谷へ進出

 岐阜に戻った信長は、報復に燃え、直ちに江北浅井討伐の準備にとりかかり、六月一九日岐阜を出発、国境の苅安城、長比城を落とし、六月二一日大軍勢で浅井氏居城小谷城の眼前に在る虎御前山に陣を構えた。まさに通り一つ隔てたまん前に着陣したのであるから、信長は相当の意気込みである。しかし、浅井軍は朝倉軍の援軍を待って動かなかったため、翌日信長は一旦姉川の南に位置し浅井が守る横山城を包囲するため退却を開始。当然ながら浅井軍の追撃を受けるが、うまくかわしながら姉川南の竜ヶ鼻(山城の北)に着陣した。ここで援軍徳川家康も到着し合流した。

 一方浅井軍の援軍である朝倉軍も朝倉景健を総大将に小谷城下に到着、山城を救援するため浅井軍とともども小谷東南で姉川北側の大依山に布陣した。
 浅井の山城を包囲し睨む織田・徳川軍、それを大依山から睨む朝倉・浅井連合軍という布陣である。

 ところが、二七日になると朝倉・浅井軍が陣を畳み始めた。信長方は最初は朝倉軍の撤退と見ていたが、朝倉・浅井軍は逆に南進して姉川北側に布陣し始めた。これを見た織田・徳川軍も「まわれ右」をして姉川南に布陣、二八日、姉川を挟んで野村・三田村合戦(姉川の戦い)での激突となるのである。

(2)へつづく

■粟屋氏と国吉城跡については「若狭武田氏」を参照ください

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写真撮影 2001-2003.12

本稿は福井商工会議所報「Chamber」2001年1月号「信長軍団越前を支配す(上)」の一部と 「Chamber」2004年1月号「元亀元年の争乱」を再編し改稿したものです。
無断転載はお断りします。

 

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