越前大野 ・義景ゆかりの地を訪ねて
天正元年八月十四日の刀禰坂で織田軍に大敗を喫し
た朝倉義景は、一旦一乗谷に戻ったものの、一族朝倉景鏡の居城が大野にあったこともあり、景鏡や近臣の勧めで大野に逃れ、再起を期すこととなった。
愛息愛王丸とその母小少将それに義景の母光徳院の三人も共に
十六日夕方大野の犬山麓の洞雲寺に入った。
洞雲寺は、文明年間に斯波氏(武衛)の被官人であった二宮左近将監の開基による
ものである。その二宮氏は朝倉氏の越前支配に最後まで抵抗し、文明七年七月二三日には井野部郷で戦闘し二宮将監は自決(井野部合戦)追い込まれたことを考えれば、皮肉なめぐり合わせともいえる。
十九日になると、景鏡は、防御の都合で居城亥山城近くの六坊賢松寺に移るように勧め、義景一行はこれに従い、賢松寺へと移った。
▼洞雲寺 |
▼亥山城(土橋城)跡 |
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景鏡の居城亥山城は別名土橋城と呼ばれ、南北朝期に築城されたが、室町時代には斯波氏の被官人二宮氏の居城として知
られ、大野支配を委ねられていた。朝倉氏に抵抗し攻撃された滅亡直前期には、二宮氏は一族あげてここに立て篭り、文明七年七月将監自決後も抵抗していたが、その年十二月ついに落城した。
その後朝倉時代には歴代の大野郡司が居城としており、義景の時代には景鏡が大野郡司を努め居城としていた。
そして翌二十日、景鏡は早朝から六坊賢松寺の義景を囲んだ。もはや命運尽きたことを悟った義景は、「七転八倒
四十年中 無他無目
四大本空」の辞世の句を残して自刃した。最後まで義景に付き添って介錯した近臣も自刃、もう一人の近臣鳥居景近は、一旦は景鏡勢の中へ斬り込んだものの引き返して、これも後を追って自刃したとされる。
▼義景墓 |
▼鳥居景近(左)高橋景倍(右)墓 |
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大野の墓は江戸時代朝倉の一族といわれる花倉家、松田与惣左衛門が寛政十二年に曹源寺に建立したも
のであるが、文政五年に現在地に移転したという。
義景が自刃して果てた六坊賢松寺の正確な位置はわかっていないが、最初に墓の建てられたこの曹源寺に此定する向きもある。
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義景の墓(五輪塔)の右側には、ともに自刃した近臣高橋景倍、鳥居景近の墓があり、その後ろには愛王丸、小少将、光徳院三名の共同墓が置かれている。
(左写真参照) |
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