越前若狭歴史回廊

     
   


愛王丸(義景息)終焉の地

 正元年八月、刀禰坂で織田軍に大敗を喫し、十五日僅か数名を従えて一乗谷に戻った義景は、一旦は自刃を決意したが、一族景鏡や近臣の勧めで近習と共に大野に逃れ、再起を期すこととなった。愛息愛王丸とその母小少将それに義景の母光徳院の三人も共に大野へ逃れ、犬山麓の洞雲寺に入ったが、義景の期待した平泉寺の支援は得られなかった。
 十九日になると景鏡が、防御の都合をいいたてたため、夕刻、景鏡の居城亥山城近くの六坊賢松寺に移らされたが、洞雲寺の後ろは犬山で逃亡を防ぐためと思われる。

 して翌二十日、景鏡は早朝から義景を囲んだ。もはや命運尽きたことを悟った義景は、「七転八倒 四十年中 無他無目 四大本空」の辞世の句を残して六坊賢松寺にて自刃した。最後まで義景に付き添って介錯した近臣高橋景倍も自刃、もう一人の近臣鳥居景近は、一旦は景鏡勢の中へ斬り込んだものの引き返して、これも後を追って自刃したとされる。

 された愛王丸とその母小少将それに義景の母光徳院の三人も朝倉景鏡に捕らえられ、亥山城 (土橋城)に連れて行かれた。
  が、景鏡の自己保身の身代わりに、義景の首とともに翌二一日信長軍に引渡され、朝倉旧臣でいち早く裏切った前波吉継によって府中に拘引された。

 の後、義景の首とともに京都へ護送されることになったが、その途中の南条郡帰の里(今庄町)で、二六日丹羽長秀の手で三人とも刺殺された。遺体は堂に押し込められ火をかけられたという。
 帰の里の殺害現場は、山すその平坦地であったが、雪崩で土地が一部削られ、ピンポイントで特定することは困難となっているものの寺屋敷跡として現存し、近年の急傾斜工事でも石積みが確認されている。(写真は愛王丸位牌)
 二位尼光徳院にとっては、無念の最後であった。

 なお、義景の首は京に送られた。

▼寺屋敷跡 ▼愛王堂

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