越前若狭歴史回廊

 朝倉景鏡

あさくらかげあきら
朝倉景鏡 (?〜天正二年)

 父は戦国朝倉氏三代貞景の次男景高、母は烏丸冬光女、通称 孫八郎。
  永禄七年九月(1564年)朝倉軍の大将として、景隆とともに加賀に出陣。しかし、陣中の内輪もめ(大将争い)で宗滴の孫景垙が自刃する騒ぎを起している。
 同九年九月にも加賀に出陣している。

 将軍足利義輝が松永久秀の謀反で殺害された後、奈良を脱出し、近江、若狭を経由して敦賀に逃れていた足利義秋(義昭)が、敦賀郡司景恒の案内で一乗谷に移ったのは永禄十年 (1567年)十一月二一日であるが、二七日に朝倉義景が御礼のため参上した際、景鏡は案内を務め、式部大輔に任ぜられた。

 しかし、これは同名衆の筆頭であり、先に自刃した景垙の父でもある朝倉景紀との対立を一層激化させた。

 永禄十年十二月義秋が朝倉舘を訪問した際には景紀が同名衆首座を務めたため不参した。翌年の義景館訪問は景鏡が首座を務めたため景紀一族は不参であった。

 元亀元年(1570年)四月織田信長は十万の兵を率いて越前へ侵攻したが、浅井長政に離反され、退路を断たれようとしたため京へ逃げ戻った。景鏡は五月総大将として二万余騎を率いて江北へ発進して信長軍を追撃、ついで美濃の垂井・赤坂に放火をして帰陣した.
 姉川の戦いを挟んで、朝倉氏は義景自身が近江に出陣、織田軍を打ち破り、京を窺うも、信長の要請を受けた義昭の調停で和睦。
  元亀三年(1572年)信長は浅井長政の居城小谷の前の虎御前山へ城を築いたため景鏡は浅井の援軍として五千余騎を率いて五月、七月と連続して小谷に出陣した。

 しかし、天正元年(1573年)近江出陣は度重なる出陣を理由にこれを拒否、義景が刀禰坂の戦いで大敗して一乗谷に帰ると、大野に逃れ最後の決戦をすすめたが、最後は義景を裏切って これを襲い、六坊賢松寺に自害させ、義景の首を信長に渡し降伏した。母光徳院、遺児愛王丸とその生母(小少将)も信長軍に引き渡され殺害された。

  同年、信長に従って上洛し本領を安堵され、土橋と姓を改め土橋信鏡(のぶあきら)と名乗ったが、翌年一向一揆 が起き、朝倉旧臣を襲うと、朝倉氏の有力一族でありながら最後に義景を裏切り、自刃に追い込んだ朝倉(土橋)景鏡は、身の危険を感じ、家族と近臣を引き連れ、平泉寺に逃げ込んだ 。しかし、本願寺は朝倉を裏切った「平泉寺と景鏡攻撃」を指示し、ついに平泉寺もろとも滅亡した。

<関連資料>
村岡山城跡(平泉寺、景鏡討伐のため一揆軍が築いた砦)
信長越前を支配す・下(信長軍と越前民衆の戦い)
朝倉景鏡一乗谷館跡
朝倉景鏡その他の居館跡、墓

 

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