朝倉景鏡は朝倉最後の当主義景の従兄弟で、父は戦国朝倉氏三代貞景の次男景高
。義景の時代、同名衆でも筆頭の位置にいた。
朝倉軍の大将としても何度か出陣しており、足利義秋(義昭)が、一乗谷に移った永禄十年十一月御礼のため参上した際、式部大輔に任ぜられた。
天正元年の朝倉氏の滅亡につながる近江出陣では不参し、義景が刀禰坂の戦いで大敗して一乗谷に帰ると、大野に逃れ最後の決戦をすすめたにもかかわらず、最後は義景を裏切って自害に追い込んだ。このため、翌年一向一揆で朝倉旧臣への攻撃が強まると、平泉寺に逃げ込んだが、最後は、平泉寺もろとも滅亡した。
その一乗谷の屋敷跡は、城戸ノ内にあり、当主義景についで立派なもので、外濠をかまえ5,000uの広さを誇る。濠を有した屋敷としては、現在のところ朝倉館、景鏡館、前美濃国主で亡命していた斉藤龍興舘の三箇所が確認されている。
屋敷跡は、その後の一乗谷川の氾濫で削られ遺構は充分ではない。現在は、道路が舘跡中央を通っている。それでも、広大な屋敷跡は実感できる。
▼舘跡 |
▼濠跡と土塁跡 |
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但し、道路からは何の標識も出ていない(2002年9月現在)ので、気がつかないケースが多いので注意
地図はここです
その他(境寺、平泉寺)の居館跡はこちらです
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