越前若狭歴史回廊

     
   

朝倉景鏡関係史跡
境寺居館跡、平泉寺居館跡、墓


 朝倉景鏡。
 朝倉義景を最後に裏切り、自刃に追い込み、朝倉氏を滅亡させ、常に陰の部分が語られてきた武将である。
 ただ、景鏡すれば、自己保身はもちろんあったであろうが、朝倉の「血」を残すには、やむを得ない措置であったのかも知れない。

 主家の断絶はもはや避けられない状況のなかで、戦国朝倉氏三代貞景の孫(父は貞景の次男景高)にあたり、母の出自(烏丸冬光女)を考えれば、朝倉の血筋を残すのは、自分と自分の子以外には、考えられなかったのであろう。
 実際、信長は多くの朝倉氏一族を赦免するなかで、景鏡一族だけは赦免を認めず、抹殺の対象にしていたのは、当然その「血」を考えてことであった。

 ぎりぎりの決断で何とか生き延びた景鏡であったが、予期せぬ一向一揆の蜂起で、滅亡の運命を辿る。

 信長の赦免により大野郡の支配を引き続き認められたものの、義景自刃の翌年(天正2年)1月、越前各地で一向一揆が蜂起、大野も当然この波に飲み込まれていく。

 危険を悟った景鏡は居城の土橋城を捨て、支配地の一つである境寺居館へ妻子と僅かな手勢で避難する。本当は一刻も早く、平泉寺に入山したかったのであるが、そのためには平泉寺との交渉が必要であった。

境寺村居館(支城)跡

 江戸期に著かれた「越前国城跡考」には「境寺村に東西百間南北三十間」の景鏡屋敷跡を記している
 「だいじんぐさん」とよばれる山裾の地は、今は雑木の中に埋もれ、遺構らしきもは残っていない。

 

境寺村 朝倉の守り神

 戦前までは屋敷跡地に守り神として小さな祠がまつられていたが、現在は移転して境寺集落に安置されている。

 

 当時の平泉寺は、6千坊を有する巨大な宗教・軍事都市(施設)であった。
 2月上旬、平泉寺との交渉がまとまり、景鏡は妻子と配下の2、30騎を引き連れ壁倉の渡しで九頭竜川を渡り、平泉寺に駆け込んだ。


 

平泉寺居館跡

 平泉寺に避難した景鏡は、南谷構口から少し奥に入った一角を居館とし、その地現在も朝倉台(城山)として名を残している

 

発掘がすすむ中世宗教都市

 平泉寺(白山神社)は、養老年間(720年頃)に、泰澄大師によって創建されたと伝えられ、室町時代には9万石の寺領と48社36堂、6千坊を数え、絶頂期にあった。
 

 村岡山に砦を築いた一揆勢力への攻撃を主張する平泉寺衆徒。景鏡は寺内が手薄になり危険と制止するも、出撃。事態は景鏡の予測通りに進展。がら空きの境内に一揆勢力はなだれ込み全山焼亡.となる。
 景鏡も死を覚悟で出陣。最後は、室屋五郎左衛門によって首を落とされた。
 一揆勢力はこの後、景鏡の10才と6才の男児を捜し出し首を打ち、父子3人の首を晒したとされる。
 

平泉寺居館跡に残る景鏡墓
朝倉氏ゆかり窓安寺の景鏡一族墓

一乗谷の景鏡館跡はこちらです

 

TOPへ戻る

Copyright (c) 2009 H.Okuyama. All rights reserved.
本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページへリンクして下さい。.


 

inserted by FC2 system