越前若狭歴史回廊

     
   


刀禰峠 朝倉軍が壊滅に追い込まれた地

 禰峠は福井県(敦賀市刀根)と滋賀県(柳ヶ瀬)を結ぶ交通の要所である。別名久々坂峠とも呼ばれている。朝倉氏の滅亡を運命づけた「刀禰坂の戦い」の場所でもある。今では北陸自動車道が通って 、一気に通り抜けるため、激戦の雰囲気に浸る間もない。

 亀4(1573)年7月、織田信長は浅井・朝倉攻撃のため近江に出陣、浅井氏からの救援要請を受け朝倉義景は、自らが総大将となり一乗谷を進発するも 、一族の朝倉景鏡など重臣が出陣を拒し、 悲壮な出陣となった。
 浅井方の武将数名が信長方に寝返るという事態も発生し、ますます窮地に追い詰められるなか、義景は多くの反対を押し切って敦賀から柳ヶ瀬、さらに木ノ本まで軍を進めた。 その数約2万といわれている。

 ころが、江北での朝倉氏の拠点大獄山城と丁野城が信長軍の猛攻にあって陥落し、浮足立った朝倉軍は態勢を立て直す間もなく 一斉に敦賀の疋田に向って退却を開始。
 この時を待っていた織田軍は、信長自身が先頭で追撃に乗り出し、越前と近江の国境にあたるこの刀禰坂で退却する朝倉軍に追いつき、凄惨な掃討戦が繰り広げられた。

 倉側にも忠義の武将はおり、しんがりを務めた山崎吉継をはじめ少なくない武将が、義景を一乗谷に逃がすため、追撃を受けながら反転し、必死に踏みとどまって戦い、一度は信長軍を押し返 した。しかし。浮き足だち逃亡する軍を統制することは不可能で、大半は峠付近にて討死にした。ますます勢いを増す織田軍に、次々と朝倉兵は討ち取られ、朝倉軍団の中核部隊は、ほぼ壊滅に追い込まれた。ここから敦賀の疋田までの間で大激戦が展開された 。

、この戦闘で朝倉側の防衛拠点となった疋田城は、いまもその遺構を疋田の小高い台地に留めている。また疋田には、この時の戦いで戦死した武将の墓塔が残っている。

 兵のほとんどを失ってしまった義景はわずかの近習に守られて、府中(武生)を経由して一乗谷へと敗走。その後大野に逃れたものの追い詰められて自刃し、朝倉氏は滅亡した。

 この間の経緯は
 ●一乗谷炎上(信長軍の越前進攻と朝倉氏の滅亡)
  織田・朝倉の最後の戦いと滅亡まで    を参照して下さい

▼峠頂上付近(1) ▼峠頂上付近(2)

 道は、敦賀側は林道整備が進められ、柳ヶ瀬隧道の直前を曲り、そこから峠近くまで車で行くことができる。車 を降りてからは徒歩10分程度で峠に到着する。峠には地蔵が置かれ、久々坂峠の案内標識板も地元の人によって設置されている。なおこの峠から20分ほど登ると、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が本陣を置き、 国指定史跡となっている玄蕃尾城址を見ることができる。
 刀禰峠は、近江側では倉坂峠と呼ばれており、柳ヶ瀬には、集落の北端に倉坂峠の案内板と並んで、「 右えちぜん かが のと道 左つるが 三国ふねのりば 」と石に刻まれた道標が建っている。これは明治期に建立されたもので、それほど古いものではないが、この場所から少し北に入ったところが刀禰越の古道入口となる。
 
▼柳ヶ瀬集落北端の案内板と石標 ▼柳ヶ瀬側古道登り口

 

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(初出 「福井商工会議所報」2010年10月号)一部補筆・追加しています
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