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越前若狭歴史回廊 |
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元亀4(1573)年7月、織田信長は浅井・朝倉攻撃のため近江に出陣、浅井氏からの救援要請を受け朝倉義景は、自らが総大将となり一乗谷を進発するも
、一族の朝倉景鏡など重臣が出陣を拒し、 悲壮な出陣となった。
ところが、江北での朝倉氏の拠点大獄山城と丁野城が信長軍の猛攻にあって陥落し、浮足立った朝倉軍は態勢を立て直す間もなく
一斉に敦賀の疋田に向って退却を開始。 朝倉側にも忠義の武将はおり、しんがりを務めた山崎吉継をはじめ少なくない武将が、義景を一乗谷に逃がすため、追撃を受けながら反転し、必死に踏みとどまって戦い、一度は信長軍を押し返 した。しかし。浮き足だち逃亡する軍を統制することは不可能で、大半は峠付近にて討死にした。ますます勢いを増す織田軍に、次々と朝倉兵は討ち取られ、朝倉軍団の中核部隊は、ほぼ壊滅に追い込まれた。ここから敦賀の疋田までの間で大激戦が展開された 。 、この戦闘で朝倉側の防衛拠点となった疋田城は、いまもその遺構を疋田の小高い台地に留めている。また疋田には、この時の戦いで戦死した武将の墓塔が残っている。 将兵のほとんどを失ってしまった義景はわずかの近習に守られて、府中(武生)を経由して一乗谷へと敗走。その後大野に逃れたものの追い詰められて自刃し、朝倉氏は滅亡した。
古道は、敦賀側は林道整備が進められ、柳ヶ瀬隧道の直前を曲り、そこから峠近くまで車で行くことができる。車
を降りてからは徒歩10分程度で峠に到着する。峠には地蔵が置かれ、久々坂峠の案内標識板も地元の人によって設置されている。なおこの峠から20分ほど登ると、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が本陣を置き、
国指定史跡となっている玄蕃尾城址を見ることができる。
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(初出 「福井商工会議所報」2010年10月号)一部補筆・追加しています
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