越前若狭歴史回廊

   

元 亀 争 乱
 

     
   

元亀元年の戦い ー 天下は朝倉殿に(3)

朝倉軍京に進出 志賀の陣

 信長が野田・福島の戦いで大坂に足止めされている中、朝倉軍は一気に湖西を上り、京を目指した。これまでの朝倉軍のもたもたぶりとはうって変わった機敏さである。十六日先鋒の景健軍は京の入り口坂本に着いた。いよいよ「志賀の陣」のはじまりである。ここ坂本は信長の重臣森可成(森蘭丸の父)が宇佐山城を守っていた。森は朝倉軍の攻撃態勢が整わないうちに攻撃をしかけるほうが有利と判断して、城を出て足軽部隊を攻撃するも戦局に影響はなく、すぐに兵を退いた。

▼宇佐山城跡遠景 ▼宇佐山城跡案内

 宇佐山城は、坂本南(西大津)の近江神宮の後背の山城で、宇佐八幡宮から登ることができ、主郭の山頂には現在テレビ電波の中継塔が建てられており、付近には石垣跡なども一部残っている。水城で有名な坂本城が築城されるまで、明智光秀も一時居城としたことがあり、信長にとっては京との連絡に欠かせない城であった。

 十九日朝倉・浅井軍は宇佐山城の攻撃態勢を整え、一方の信長方も信長弟織田信治が京より下り守りを固めた。そして二十日織田軍と朝倉・浅井軍とのあいだで坂本合戦が展開される。結果宇佐山城主で信長重臣森可成と信長弟織田信治は戦死し、朝倉・浅井軍は翌二一日京に進出し山科、醍醐方面を焼き払い洛中に進攻した。
 もしこの時、将軍義昭が在京していた場合、朝倉・浅井軍と連携して一気に信長追討に立ち上がったであろうが、前述のとおり、信長はしっかりと将軍義昭を供奉していた。
 京の寺社は一斉に朝倉氏、浅井氏に軍勢の暴力行為を止める禁制を求め、この時の禁制が今でも上賀茂神社、清水寺、東寺、知恩院などに残っている。

信長、陣を京に戻す

 この知らせは直ちに形勢不利に陥った大坂の信長に知らされ、驚愕するも、さすがに信長で、越前金ヶ崎での撤退同様決断は早く、二三日には散々な目に合いながら軍勢を退却させ、将軍義昭を伴い京に戻った。
 十月一日には三好三人衆待望の名将篠原長房が野田に二万の軍勢を率いて着陣しており、もし撤退がもう少し遅れたら、それもできずに完全に足止めを食い、京は朝倉・浅井の支配下に入った可能性が充分に予想される事態であった。
 京に戻った信長は、翌二四日朝倉軍を攻撃するため京を出て坂本に出たが、朝倉・浅井連合軍は比叡山に登るとともに、壺笠山や青山に築城して京との連絡口を保ちながら守りを固め、信長に対峙した。この時朝倉氏が築いた壺笠山城跡はいまでも遺構が残っている。京阪電車穴太駅の西の山がそれで、四世紀ごろの古墳群も残っているが、城はその山頂に築かれた。

 朝倉・浅井連合軍はこの時には、比叡山延暦寺の宗徒も含め四万に膨れ上がっていたのである。
 信長は宇佐山城を拠点に戦を挑発するが、朝倉・浅井軍はそれには乗ってこないばかりか、南近江の六角氏も反信長で挙兵し、逆に信長軍が孤立状態となる。これは何とか押さえ込む (和睦)も、信長が協力を要請した延暦寺は、焼討ちの脅しをかけたりし、味方しないまでも中立を求めるものの、朝倉氏や浅井氏とは関係が深く、あっさりと信長の申し出を拒否した。
 事態を放置すればますます形勢が不利になることを見越した信長は、朝倉義景に和睦を申し入れるも義景はこれを拒否。
 信長も相当の危機感を持っており、横山城から救援にかけつけた木下秀吉の軍勢を、謀反の蜂起と一時取り違えるほどであった。十月二十日朝倉軍は洛北に出て修学院、一乗寺一帯に火を放つなど、信長軍の孤立化を浮き上がらせた。
 しかも、信長の国元でも本願寺の激に呼応して長島門徒が決起、尾張小木江城を落とし、また信長弟の信興も敗死に追い込まれていたのである。
 若狭でも一時失脚していた武田信方が復権し、大飯郡や遠敷郡で反信長勢力が巻き返しにでていた。

 信長は、戦局打開のため物流の拠点堅田に軍勢を入れこれを固めんとするも、十一月二六日朝倉・浅井軍がこれを攻撃、大激戦となるなか、織田軍は将坂井正尚が打たれ、 朝倉軍も犠牲をだしながらも奮戦し、堅田は朝倉軍に占領された。

天下は朝倉殿に

 四面楚歌に陥った信長は、ついに将軍義昭を担ぎ出し朝倉氏との和睦の仲介を依頼。将軍義昭は不本意であったが、堅田合戦の二日後、坂本園城寺に下向して両軍の仲介にあたった。また最後まで和睦に抵抗した延暦寺には朝廷から綸旨が下された。「信長公記」ではこのあたりは、逆に、つまり義景から和睦仲介要請があったように記されているので注意が必要である。
 信長は数通の起請文を義景に差し出し、その中で「天下は朝倉殿に、我二度と天下を望まず」と書いたとされる。「三河物語」にでてくる記事で、信憑性はそれほど高くはないが、信長がそれに近い状況に置かれていたことは、講和の条件である人質の交換も朝倉氏が築いた壺笠山城でおこなわれたことからも間違いないであろう。
 ただ、この時期信長はまだ、幕府体制と将軍義昭の推戴の下にあったわけで、「天下を望まず」と書ける立場にはなく、「京を望まず」ぐらいのニュアンスが妥当なところであろう。撤退する時は恥も外聞も投げ捨てられる信長は、この程度のことは平気で書き送ったことは充分に考えられる。
 信長はこの危機を脱しなければ明日がないだけに、近江北郡の三分の一を浅井氏、三分の二を織田氏とする案に異存のあるはずもなく、講和がなった十四日真っ先に陣払いをし大雪の中岐阜に戻り、遅れて陣払いした朝倉氏・浅井氏とも本拠地に撤退した。
 こうして、信長は、後に「生涯の三大危機」といわれた元亀元年に起こった「越前金ヶ崎の退却」「野田・福島の戦い」「志賀の陣」を辛くも乗り切ったのである。

エピローグ

 将軍義昭はこの和睦の仲介役を果たしたが、意外な織田軍の弱さに自信を深めたのか、以降活発に反信長戦線構築に動き出し、信長と対立。後に、京を追われ亡命先の備後鞆で最後の足利幕府(鞆幕府)を開くものの、結果的には幕府の寿命を縮めた。
 義景は「金ヶ崎の退く口」「志賀の陣」と二度にわたり信長を窮地に追い込みながら、詰めがあまく、結果的には自らを危機に追い込む。後年朝倉氏の重臣や一族で離反が生じるのは、このあまさを見透かされたのではなかろうか。個人的には、義景は文武ともに優れ、決して凡庸とは思われないが、室町幕府のもとで安定した領国経営を志向するものと、天下を目指したものとの違いが出たことは否定できない。
 一方信長は、翌元亀二年二月には早くも軍を動かす。浅井方の佐和山城を奪取し、岐阜との上洛経路を確保して、九月には前年に朝倉に同心して信長に敵対した比叡山を焼き打ちにした。
 元亀四年には、信長は本格的に小谷城に攻撃をかけてきたため、これに対陣すべく七月に朝倉景鏡が小谷へ出兵し、ついで義景も出陣して小谷城の奥の大嶽に 新たに城を築き、また丁野城をはじめ小谷城の守りを固めるが、そこまでであった。
 信長の各個撃破の戦略のまえに反信長陣営は切り崩され、元亀四年は朝倉氏最後の年となる。七月一七日一乗谷を出発し、刀 禰坂の戦いで大敗し、八月十五日敗軍の将として一乗谷に戻った義景は、僅か数騎を従えるだけであったという。その後大野に逃れるものの一族朝倉景鏡の謀反で、二十日大野にて自刃する。「七転八倒 四十年中 無他無目 四大本空」が辞世の句であった。
 織田軍によって放たれた火で、一乗谷は三日三晩燃え続けたという。


(了)

■朝倉氏の滅亡は「一乗谷炎上(信長軍の越前進攻と朝倉氏の滅亡)」を参照ください

Copyright (c) 2003 H.Okuyama. All rights reserved.
写真撮影 2003.12

本稿は福井商工会議所報「Chamber」2004年1月号「元亀元年の争乱」を再編し加筆したものです。
無断転載はお断りします。

 

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