越前若狭歴史回廊

   

元 亀 争 乱
 

     
   

元亀元年の戦い ー 天下は朝倉殿に(2)

[姉川の戦い、野田・福島の戦い]


戦いの評価


 「姉川の戦い」の評価も近年大きく変わった。
 江戸時代に作られた書では、織田方は十三段構えのうち十一段まで浅井軍に崩され、一歩間違えば総崩れの瀬戸際に追い込まれるが、家康が朝倉軍の側面攻撃を命じ、この結果朝倉軍は総崩れ、ついに浅井軍も総崩れとなり、織田・徳川軍の大勝利 で終わったことになっている。これは後世に家康神格化のために誇張されたものであろう。
 最近は「五分五分の引き分け」説、極端な説では「まったく戦況に影響しなかった戦い」まで様々であるが、徳川軍の奮闘で織田・徳川軍の大勝利は「誇大宣伝」 とする点では大体一致している。確かに信長が細川藤孝に出した書状では「野も田畠も死骸計に候」と大勝利を謳っているが、当時は負けても引き分けても「勝利」を宣伝するのは当たり前で、書状の内容だけでは根拠は薄い。山科言継のように信長方の宣伝を鵜呑みにして、 戦死者「浅井九千六百、朝倉五千」と、その数が動員された軍勢以上にのぼる記録まである。
 また姉川の戦いで朝倉景紀が第一陣を務めたと広く紹介されているが、景紀が出陣した記録は無い。このころ景紀は高齢(七十才前後)で 、すでに孫とともに隠居生活を送っており、儀典ならともかく戦場に顔を出すことは無かったと思われる。 景健が総大将で、同名衆筆頭の景紀が先陣ということもありえない。「始末記」も「信長公記」も景紀の名を記していない。

 「姉川の戦い」という呼称も徳川のもので、当時は朝倉方は「三田村合戦」、浅井、織田方は「野村合戦」と呼称した。

姉川の戦い(三田村・野村合戦)

 実際の戦いはどうだったのであろうか。
 まず両軍の布陣を見ておこう。大依山を下って姉川の北に朝倉・浅井連合軍、南に徳川・織田連合軍であるが、現在の姉川にかかる国道三六五号の野村橋付近から東に浅井軍と織田軍が対峙、そこから西側の三田村に朝倉軍と徳川軍の対峙と二手に分かれた布陣となった。総軍勢は資料によって異なりはっきりしないが、朝倉軍は八千に対して徳川軍は五千、浅井軍は五千に対して織田軍は一万五千前後ではなかろうか。
 姉川に行ってみると、それほどの大河ではないが、南からは横山城のある横山連峰がせり出し、北には小谷城や虎御前山が見える。城の守備兵からは、合戦がまるでパノラマ映画を見るように展開していったのではなかろうかと思われる。
 朝倉軍と徳川軍が激突した三田村では、家康が岡山(勝山)に本陣を置き、景健は三田村城(館)に本陣を置いたと推定されるが、現地に 立ってみると川からそれほど離れていない場所であり、お互いの本陣を確認できる位置である。

←朝倉景健本陣
三田村城(館

 

徳川家康本陣→
岡山(勝山)

 

 二八日早朝、戦いの火蓋が切っておとされた。朝倉軍が徳川方に攻め込み初戦を有利に展開すれば、浅井対織田の戦線においても浅井軍の先方が織田軍に猛攻を加え、織田の第一陣は崩れ、大乱戦のなかで浅井軍の奮闘が目立った。しかし 、横山城を包囲していた織田軍が、遅れて姉川に到着し、新手の軍勢として浅井軍を側面から攻撃すると、後半は織田・徳川軍優位に戦局は展開した。別に徳川軍の働きによるものではないであろう。
 前半朝倉・浅井有利、後半は織田・徳川有利に展開し、織田・徳川優位で引き分けたとみるのが妥当であろう。両軍とも多数の戦死者を出し、朝倉・浅井軍は小谷城に引き上げ、織田・徳川軍も小谷城下に深追いせず、城に攻め込む余力は残っていなかったのが実情であろう。越前側では敗北したとの意識を持っていなかったのは事実で、戦局自体に大きな影響は与えなかったのではなかろうか。
 「朝倉始末記」の後半は朝倉氏の滅亡を描いているが、もしこの戦いが大敗北で、大きな意味を持っていたなら、恰好のテーマとしてとりあげたに違いない。しかし、「始末記」の扱いは素っ気無いものである。 さらに、始末記の原型は信長時代に成立したため、信長には表現に相当気配りをしているものの、この戦いでの信長勝利を記していない。

 むしろ、朝倉義景が信長に対決するのは、この戦いの直後からなのである。姉川の戦いで大将を務めた朝倉景健を先鋒にして自ら出陣し京に迫り、信長を追い詰るのであるが、その戦いは次回の(3)で触れるとして、景健を先鋒に起用していることからみても、朝倉側が敗北したとの認識がないことは間違いない。
 両軍に少なくない犠牲がでたことも事実であるが、信長は小谷城へは攻め込めなかったものの、横山城の守備兵が退城した後これを奪取し、木下秀吉を城番として置き、浅井氏の監視にあたらせた。
 織田方は浅井方の佐和山城も囲むが、しかし、織田方の兵の消耗も激しく、力づくで落とすことは無理で、これは断念せざるをえなかった。

 それでもこの結果、信長は春の越前攻めで逃げ帰った「敗軍の将」のイメージを払拭することには成功したと見るべきで、盛んに「勝利」を宣伝してまわり、一旦上洛した後、岐阜に戻った。
 宣伝戦では信長の勝利であった。

すすむ信長包囲網

 このころ将軍義昭と信長の関係にも変化が生じていた。義昭の将軍継承は信長の軍事力によって実現したもので、信長からすれば将軍はお飾りとの意識があったのかも知れない。このため信長は、将軍から勧められた副将軍や管領職就任を辞退したが、その結果信長は公権力を行使する術を確保できずにいた。逆に戦国乱世をしぶとく生きぬいてきた室町幕府は、義昭の将軍職継承で息を吹き返し、両者の対立が表面化していたのである。元亀年号に入るころには、将軍義昭は「御教書」を出し、盛んに各地の大名に「反信長」戦線構築を訴えていたのである。
 そのような中、姉川の戦いからまだ日が経っていない七月に摂津で、反信長の三好三人衆が決起して、摂津中島に上陸し、野田、福島に築城、進出し京を覗った。三好党には、かつて信長に美濃国主の座を追われた斉藤龍興も加わっていた。JR大阪駅にも近い野田、福島は今ではその面影はないが、当時は多くの河川に囲まれた要害の州であった。
 三好党の動きを見た信長は、八月二十日岐阜を発つと京に入り、将軍義昭を奉じて三好軍に向かった。このあたりの信長の勘はさすがである。京に将軍を残して出陣し、反信長陣営に将軍義昭を奪われ推戴された場合、信長の立場は危ういものになってしまうからである。 それに摂津衆を味方につけるには信長ブランドでは効果がなく、将軍ブランドが必要であった。

 信長は最初天王寺に陣し、姉川の戦いからまだ日があまりたっていないせいか、力づくでの戦いは控え得意の調略で相手側を崩し、本願寺に隣接する天満森に進み、九月十二日将軍義昭を供奉して海老江に本陣を移し、攻勢に転じる。この間の戦いは、信長軍が優勢で、三好党は時間稼ぎで和睦の話を持ち出すも 、信長は当然拒否する。
 しかし、信長軍の攻撃準備が整ったまさにその時、十二日夜半、信長軍の戦意を喪失させる「石山本願寺の鐘」が打ち鳴らされたのである。

鳴らされた本願寺の鐘  

 もともと三好三人衆が蜂起した野田、福島は本願寺の影響の強いところであり、ここで信長が勝利を収めることは、本願寺にとっても将来を大いに不安にさせるものであった。本願寺はすでに朝倉・浅井と連携して反信長を固めていたのである。まさに信長が攻勢に転じたその時、本願寺はついに鐘を打ち鳴らし、信長軍に宣戦布告したのである。
 十三日、十四日と襲いかかる本願寺の兵に信長軍は敗戦、さらに強風で海水が逆流するなか、三好軍が切った淀川の堤で信長の陣は浸水、信長は今度は逆に三好軍に和睦を働きかえるが拒否される。遅れて進出し きていた雑賀の軍勢は、信長の銃火を圧倒する三千丁の鉄砲を有し、この音が日夜響きわたっるなか、二十日の戦闘でも信長軍は敗北、しかも更なる危機が襲ってきたのである。

 姉川の戦いで引き分けた朝倉軍が、湖北に進出してきたのである。
  
 朝倉氏の当主義景は姉川の戦いでは八千の兵しか送らなかった。逆にいうとこの程度で充分と思っていたのである。すでに五代百年にわたり越前を支配し 、先代には将軍相伴衆として名門守護大名に準じ、若狭や加賀北部、湖北まで影響を及ぼしていた朝倉氏は、信長をなめていたのである。
 朝倉氏と織田氏はともに、管領家で越前・尾張の守護であった斯波氏の宿老であったが、応仁の乱後いち早く斯波氏から独立した朝倉氏に対して、織田氏は 、戦国末期信長の代になってようやく尾張一国を統一し、斯波氏から独立した新参者で、しかも信長の出自は織田氏の傍流にすぎなかった。
 このことは浅井長政と信長妹市の婚姻でも明らかだった。朝倉氏は斯波氏宿老として、かつては織田氏嫡流系とは当然のことながら姻戚関係にあったが、朝倉軍団のなかでの郡司級の浅井長政と織田傍流の信長妹のであれば、つりあいは妥当なものと判断し、婚姻を認めていたと考えられる。

 姉川の戦いでは自身は出馬せず、朝倉景健を大将に八千の兵を送るにとどめたが、勝利できなかったことを知った義景は、姉川の戦いで総大将を努めた景健を先鋒にして、今度は義景自身が兵を率いて湖北に進出、浅井軍とも合流して三万の軍勢で湖西から京を目指した

 信長の生涯における最大危機、ギブアップに追い込む「志賀の陣」のはじまりである。

 

(3/完)へつづく

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写真撮影 2003.12

本稿は福井商工会議所報「Chamber」2004年1月号「元亀元年の争乱」を再編し加筆したものです。
無断転載はお断りします。

 

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