越前若狭歴史回廊

   

 
朝倉宗滴の奮闘と義景の戦い
 

   

越前朝倉氏と加賀一向一揆との抗争(3)

永禄7年の加賀出兵 朝倉義景出陣す

 「朝倉始末記」では、この永禄7年の出兵には一切ふれていませんが、史料としての価値が高い「当国御陣之次第」や残っている文書(感状)から出兵は事実とみて間違いありません。実際、このような和睦は、超勝寺などにとっては越前復帰が遠のくだけで意味も無く、依然として裏で策動していたと考えられますし、また上杉謙信は、越中の一向一揆勢力と結びついている武田信玄に対抗するため、朝倉氏側に一揆挟撃の提案をしてきておりました。

 永禄7年、前回は宗滴の意を汲んでの出陣命令であったのに対して、今度はこれらの事態に対応するため、朝倉義景は、自分の意志で加賀出兵を命じます。
 宗滴が生きていれば総大将は朝倉宗滴かその養子景紀で何も問題は無いのですが、宗滴無き今、義景は朝倉景鏡(大野郡司)、景隆に大将を命じます。悲劇はここから生じます。この戦いには宗滴の孫で景紀の嫡男 景垙(敦賀郡司)も参加しておりました。敦賀郡司家は宗滴以来代々総大将を務める家柄であり、景垙も当然それを期待したことと思われます。しかし、義景から総大将を命じられたのはこれまで大将を経験したことのない大野郡司景鏡だったのです。
 9月1日一乗谷を出発したものの、翌日、景垙は大将になれないことに抗議の意を込めて自刃してしまいます。

 驚いたのは景垙の父である景紀だけでなく、義景自身であったと思われます。このため義景は自身が総大将として出陣する決意を固め一乗谷を出、12日自ら本折、小松の両城を落としています。さすがに朝倉氏当主の出馬だけに朝倉軍の士気は高く、18日御幸塚城もあっさりと落としています。

 今度は義景自身が出馬した小松周辺の戦い跡に行って見ましょう。小松城は近世に大きな手が加えられて、現在の城跡は当時のものと全く異なっており、往時の面影を見出すことはできません。本折城も平城であったため、遺構は何も残っておりませんが、現在の本折町の本光寺が主郭跡とされています。 江戸期に本光寺が移転する際、その一帯だけ、地盤が固く少し盛り上がっていたと伝承されています。

▼本光寺(本折城跡) ▼今江の御幸塚城跡

 御幸塚城はその南にあり、昭和40年代までは遺構が良く残っていたとされます。今でも城跡である今江小学校一帯は、その雰囲気 を色濃く残しており、校庭横の高台(主郭跡)には別称である今江城跡の碑が建立されています。

 義景は19日には湊川まで攻め込み、事実上南加賀を支配下に置き、各地に守備兵を入れて、25日一乗谷に帰陣しました。過去の出兵の中でも一番鮮やかのものであったといえます。

永禄9年の出兵 最後の戦い

 南加賀を朝倉氏に押さえられた一揆勢力は当然ながら白山麓に篭り抵抗を続けたと考えられます。義景は、再び大野郡司景鏡に出兵を命じ、景鏡は 加賀の横北に進出します。どのようなルートをたどったのかは分かりませんが、白山麓の一揆勢力を抑えるためと考えれば大日峠から攻め込んだ可能性が一番高いと思います。
 このことは一揆勢力にとっては地盤喪失にも繋がりかねない危機的状況に追い込まれたことを意味します。一揆勢力はここで武力だけでなく、朝倉氏側有力国衆で坂井郡を基盤にし、これまで自分達と何度も戦ってきた堀江氏に目をつけ、一揆方への内通を画策し、寝返りに踏み切らせます。

 この背景は、実は良く分かっていません。「朝倉始末記」は景鏡の讒言説をとり 、内通を否定していますが、堀江氏が一揆方に内通したことは、本願寺顕如が堀江氏にあてた書状からも事実のようです。
 大胆に推測すれば、最初に一揆方が堀江氏謀反のデマを流し、これを信じた景鏡が義景にこの事実を告げ、追い詰められた堀江氏が本当に一揆に内通し謀反を起こしたと考えることもできます。

 永禄10年3月、堀江氏の内通を得て一揆側は越前に攻め込みます。 一揆勢力の越前侵攻は永正年間以降は無かっただけに、朝倉氏にとっても驚愕すべき事態であったといえます。風谷峠を越えて侵攻した一揆勢と朝倉軍は、上野、高塚をはじめ各地で防衛戦を行うとともに、謀反に踏み切った堀江氏を攻撃するため朝倉氏の重臣山崎氏や魚住氏が金津に向かい、溝江館(金津六日町)に本陣を構えます。
 一方堀江氏は下番の堀江館(現あわら市本荘小学校)に立て篭もり、上番一帯で戦闘となります。堀江氏のもともとの館は竹田川北側の番田にありましたが、この頃には加賀への防御を考え、川の南側である下番に置かれていました。戦いは、手の内を知り尽くしたものどうしで激しいものとなりましたが、堀江景忠の室と義景の母が姉妹ということもあり、義景母(光徳院)の必死の嘆願で、堀江氏の越前退去ということで事態の収拾が図られます。

▼金津・溝江館跡 ▼下番・堀江館跡


加越和睦なる

 この戦が行われている時、足利義昭は越前敦賀に滞在していました。永禄8年5月松永久秀の謀反で剣豪将軍と言われた将軍義輝が暗殺され、身の危険にさらされた弟義昭は奈良を脱出し、近江、若狭を経て敦賀に赴き朝倉氏の支援を求めていたのです。しかし、堀江氏の謀反で越前国内の情勢が騒然としていたため、一乗谷に入ることができず敦賀に足止めとなっていたのですが、ようやく堀江氏の謀反も片付き、朝倉氏に迎えられ、義昭のために新築された一乗谷の安養寺御所に入ったのです。永禄10年10月21日のことでありました。

 朝倉氏の大歓迎を受けるなか、義昭は加賀と越前の本格的な和睦を提案します。上洛して将軍になるためには朝倉氏の支援が欠かせず、そのための障害となる加賀の一揆勢力と長年の争いに終止符を打つことが目的でした。一乗谷に在住する義昭直々の和睦仲介であり、かつ、両者ともこれ以上戦を続けることの無意味さを考えたのか、和睦に同意します。
 12月早速、一揆方の杉浦氏の子が人質として朝倉氏の下に送られ、15日には義昭の配下によって加賀の朝倉方の拠点津葉城や日谷城、黒谷城が焼き払われ、同様に一揆方の栢野 (山中町)、松山(加賀市)の城も破却されました。加賀に亡命していた超勝寺や本覚寺などもようやく越前に復帰できることとなり、ここに永正3年から60年に及んだ朝倉氏と加賀一揆勢力との本当の和睦が実現したのです。そしてこの和睦はやがて朝倉氏と本願寺そのも のとの和睦に繋がっていきます。

エピローグ

 足利義昭が一乗谷を去り、信長に擁されて上洛を果たし将軍位に就くと、信長に対する警戒心から朝倉氏と本願寺の関係は同盟関係にまで発展していきます。そのきっかけとなったのが元亀元年の争乱といわれる 姉川の戦いをきっかけとした近江での一連の戦いです。
 この一連の抗争、特に「志賀の戦い」で、本願寺と朝倉氏は共同して立ち向かい、信長をギブアップに追い込みますが、最後に義景は信長に、和睦という「救済の手」を差し伸べてしまいます。
 その後も本願寺と朝倉氏は、朝倉氏の娘と本願寺教如との婚約を決め、反信長勢力との連携を強めますが、これが限界でした。信長の各個撃破の戦略の前に反信長陣営はつぎつぎと切り崩され、朝倉氏もまた元亀4年8月その最後の時を迎えることとなるのです。

(了)

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写真撮影 2004.11
本稿は福井商工会議所報「Chamber」2005年1月号「越前朝倉氏と加賀一向一揆との抗争」に加筆したものです。
無断転載はお断りします。

 

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