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越前若狭歴史回廊 |
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越前朝倉氏と加賀一向一揆との抗争(2) 宗滴、軍を退く
太田での能登・越中軍の敗北を知った宗滴は、挟み撃ち作戦が失敗し、勝機を逸したことを認めざるをえませんでした。このため宗滴は即座に陣払いを指示し、敷地・菅生まで退き、ここに陣を構えます。 11月7日、宗滴は全軍を無事越前に引き上げさせています。宗滴に責任があるわけではなく、朝倉軍が大きな打撃を受けたわけではありませんが、この戦いは不敗の猛将朝倉宗滴にとって、生涯における苦い思い出として残ったのではないでしょうか。 なお、加賀光教寺や小一揆支持の加賀国人層も朝倉氏に従い、越前に逃れ、2千余貫の扶持をもらっていますが、その後加賀への帰国を目指し反撃を画策するも、朝倉氏の支持を得られず、 内部からの裏切りもあり、やがて雲散霧消の運命となっていきます。
朝倉氏はこの後、国内で本願寺派の動きを封じ、加越国境を一層厳しく閉鎖する措置をとったとされています。 朝倉軍の軍奉行として宗滴は、加賀のみならず、近江、京、美濃と出兵し猛将の名にふさわしい戦歴を挙げてきましたが、その最後の戦いとなるのが弘治元年の戦いです。朝倉氏の当主はすでに5代目で最後の当主となる義景の代になっていました。 79歳の宗滴にとって、懸念材料は加賀の一向一揆です。これを倒さない限り越前の安定はないとの思いは、すでに執念となっていたのです。この頃越後では上杉謙信が台頭し、越後統一をなしとげるとともに、一向一揆を押さえ込むために朝倉氏へ再接近してきたことも朝倉氏を加賀侵攻に踏み切らせる要因となったようです。
弘治元年7月21日、朝倉宗滴は老体に鞭打ち一乗谷を出陣し、金津から細呂木をとおり23日加賀の橘山に陣取りました。朝倉宗滴出陣の報に接した一揆側は津葉城(大聖寺城)や南郷城、作見方面など各地の砦に7、8千で立て篭りました。
さて、朝倉氏は朝倉景連が先頭にたち、大聖寺川沿いに津葉城に迫り、ここに篭る一揆勢に突入したほか、山側(牛ノ谷峠)から兵を進めた堀江景忠も加賀熊坂の砦を落とし、
その後津葉城攻撃に合流、さらに南郷城や作見の千足城も攻撃し、1日でこれらの城を落とします。ほかに日谷(ひのや)城ももこの時落城に追い込んでいます。
南郷城は加賀市中心部の外れにあり、現在は国道8号バイパスが横に通っています。麓には八幡神社があり、その後ろの山が城跡です。作見にあったとする千足城は残っていません。伝承では作見と隣村の弓波との境に在ったとされていますが、地形的に無理で、むしろ作見そのものの城山とみたほうがいいのではないかと思います(写真参照)。
さて、翌日には総大将宗滴は敷地山に陣を移しますが、ここまで連戦連勝でした。しかし、宗滴はここで兵を動かすのをやめ、一揆方をじらす作戦にでます。攻撃すれば一揆方は逃散するため、引き寄せて殲滅する作戦です。
朝倉軍の完勝に終わった戦いでしたが、翌々日の15日大将宗滴が陣中において突然発病します。義景は医者を宗滴のもとに送るものの79歳の体はもはや回復することはありませんでした。このため義景は宗滴の代わりに朝倉景隆親子を代わりに総大将として敷地に送り、宗滴は一乗谷に戻りますが、手当ての甲斐なく9月8日病没しました。
その後戦線は、一時朝倉方が湊川を越え石川郡に攻め入ったりもしていますが、次第に膠着状態となっていきます。背景には将軍義輝が和睦交渉に乗り出したこともあげられます。
将軍側近の大館晴光が下向し、両者とも和睦に応じたとはいうものの、最後は一揆方と朝倉方の間に将軍の軍勢が割って入って兵力の引き離しをさせるほど相互不信は根強かったとされています。
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