越前若狭歴史回廊

   

 
朝倉宗滴の奮闘と義景の戦い
 

   

越前朝倉氏と加賀一向一揆との抗争(2)

宗滴、軍を退く

 太田での能登・越中軍の敗北を知った宗滴は、挟み撃ち作戦が失敗し、勝機を逸したことを認めざるをえませんでした。このため宗滴は即座に陣払いを指示し、敷地・菅生まで退き、ここに陣を構えます。
 しかし、太田での能登・越中連合軍の敗戦で越前軍も動揺をきたしており、逆に大一揆側は気勢があがっており、このまま兵を退けば大一揆の追撃を受け、大きな被害がでることも予想されるなか、宗滴は一計を案じます。この時の朝倉氏当主は4代目の孝景ですが、「朝倉始末記」によれば、この孝景が出陣してくるので宗滴はしばらく敷地に待機したと記されています。孝景が出陣してくることなどということは、その後の孝景の治世から見ても考えられず、おそらくこれは宗滴が流したデマと思われます。「朝倉当主の孝景出陣近し」とデマを流すことによって、大一揆の追撃を防ぎ、かつ兵の動揺を抑えたのではないかと推測されます。
⇒菅生・敷地周辺の地図はここ

 11月7日、宗滴は全軍を無事越前に引き上げさせています。宗滴に責任があるわけではなく、朝倉軍が大きな打撃を受けたわけではありませんが、この戦いは不敗の猛将朝倉宗滴にとって、生涯における苦い思い出として残ったのではないでしょうか。

  なお、加賀光教寺や小一揆支持の加賀国人層も朝倉氏に従い、越前に逃れ、2千余貫の扶持をもらっていますが、その後加賀への帰国を目指し反撃を画策するも、朝倉氏の支持を得られず、 内部からの裏切りもあり、やがて雲散霧消の運命となっていきます。

 朝倉氏はこの後、国内で本願寺派の動きを封じ、加越国境を一層厳しく閉鎖する措置をとったとされています。

弘治元年の出兵 朝倉宗滴最後の戦い

 朝倉軍の軍奉行として宗滴は、加賀のみならず、近江、京、美濃と出兵し猛将の名にふさわしい戦歴を挙げてきましたが、その最後の戦いとなるのが弘治元年の戦いです。朝倉氏の当主はすでに5代目で最後の当主となる義景の代になっていました。

 79歳の宗滴にとって、懸念材料は加賀の一向一揆です。これを倒さない限り越前の安定はないとの思いは、すでに執念となっていたのです。この頃越後では上杉謙信が台頭し、越後統一をなしとげるとともに、一向一揆を押さえ込むために朝倉氏へ再接近してきたことも朝倉氏を加賀侵攻に踏み切らせる要因となったようです。

 弘治元年7月21日、朝倉宗滴は老体に鞭打ち一乗谷を出陣し、金津から細呂木をとおり23日加賀の橘山に陣取りました。朝倉宗滴出陣の報に接した一揆側は津葉城(大聖寺城)や南郷城、作見方面など各地の砦に7、8千で立て篭りました。
⇒津葉(大聖寺)、敷地、作見の位置関係の地図はここ

▼交通の要所であった橘 ▼宗滴が最初陣を敷いた橘山


 宗滴最後の戦いとなる場所に行ってみましょう。宗滴が陣をしいた橘山は古代から交通の要所であった橘の西の山です。一揆の砦津葉城は大聖寺城と も呼ばれておりますが、現在残っている大聖寺城は織豊期のもので、戦国期の城は谷を挟んでその裏手も含む大きなものであったと考えられています。
 橘と津葉に行ってみると、間に小丘を挟んではいるものの意外と近いことに驚かされます。

 さて、朝倉氏は朝倉景連が先頭にたち、大聖寺川沿いに津葉城に迫り、ここに篭る一揆勢に突入したほか、山側(牛ノ谷峠)から兵を進めた堀江景忠も加賀熊坂の砦を落とし、 その後津葉城攻撃に合流、さらに南郷城や作見の千足城も攻撃し、1日でこれらの城を落とします。ほかに日谷(ひのや)城ももこの時落城に追い込んでいます。
⇒南郷城周辺の地図はここ
⇒日谷城周辺の地図はここ

▼加賀市街からみた大聖寺城跡 ▼南郷城麓の神社
▼作見 ▼日谷城跡

 南郷城は加賀市中心部の外れにあり、現在は国道8号バイパスが横に通っています。麓には八幡神社があり、その後ろの山が城跡です。作見にあったとする千足城は残っていません。伝承では作見と隣村の弓波との境に在ったとされていますが、地形的に無理で、むしろ作見そのものの城山とみたほうがいいのではないかと思います(写真参照)。
 日谷城は、後には朝倉氏が占領して加賀の押さえとした山城の一つです。
 なお、この戦いには朝倉氏の主家筋(守護家)にあたる鞍谷氏も出陣・同行したとされており、おそらく越前の国をあげての戦いとして、総力戦の形式をとっていたと思われます。

 さて、翌日には総大将宗滴は敷地山に陣を移しますが、ここまで連戦連勝でした。しかし、宗滴はここで兵を動かすのをやめ、一揆方をじらす作戦にでます。攻撃すれば一揆方は逃散するため、引き寄せて殲滅する作戦です。
 一揆方はこの作戦にまんまとひっかかり、8月13日を期して反撃を計画します。 2年前のその日は本願寺証如の没した日であり、命日を吉日として反撃したのですが、手の内は全て宗滴に読まれていました。

 宗滴が陣取る敷地山へは和田本覚寺が大将に 鏑木・州崎・窪田・河合の石川郡門徒が、また浜の手からは藤島超勝寺が大将に能美郡の門徒、山の手は江沼郡の一揆勢と3手に分かれて一斉に攻撃にでました。浜の手から攻撃した超勝寺を大将にした一揆勢は、敷地の北にあたる高尾山に2万5千で押し寄せますが、朝倉 方萩原宗俊は、宗滴の指示通り引き寄せるだけ引き寄せて一揆に攻めかかったため、一揆軍は多くの犠牲を出し完敗しました。一方敷地山の陣には、本覚寺が大将になり石川 郡の一揆ともども5万の軍勢で大手側から、また菅生口からは1万3千で河北郡の一揆が攻め上りましたが、これも朝倉方堀江景忠に魚住、溝江、前波の諸氏によって 、菅生口は朝倉景連によって粉砕され、大敗を喫してしまいます。山の手から攻撃の準備をしていた江沼郡の一揆勢はこれを見て戦意を喪失、戦わずして逃亡を開始し、朝倉軍の追撃を受けるはめとなります。
 敷地山での城跡調査は過去に行われたことはありませんが、地元では宗滴に由来する金吾城と呼称されています。



宗滴の死と和睦

 朝倉軍の完勝に終わった戦いでしたが、翌々日の15日大将宗滴が陣中において突然発病します。義景は医者を宗滴のもとに送るものの79歳の体はもはや回復することはありませんでした。このため義景は宗滴の代わりに朝倉景隆親子を代わりに総大将として敷地に送り、宗滴は一乗谷に戻りますが、手当ての甲斐なく9月8日病没しました。

 その後戦線は、一時朝倉方が湊川を越え石川郡に攻め入ったりもしていますが、次第に膠着状態となっていきます。背景には将軍義輝が和睦交渉に乗り出したこともあげられます。
 このころ将軍義輝は、三好長慶と和睦し、これを臣従させ、諸大名への統制権として軍事調停に乗り出し、加賀一向一揆と朝倉氏間の和睦にも乗り出してきたのです。将軍義輝にも事情がありました。朝倉氏が加賀との戦闘で北陸道を封鎖しているため、北陸に所領を有する公家・寺社にとっては迷惑千万どころか死活問題にまでなっていたのです。これを打開することができなければ、将軍の権威にもかかわることであったと考えられます。
 

 将軍側近の大館晴光が下向し、両者とも和睦に応じたとはいうものの、最後は一揆方と朝倉方の間に将軍の軍勢が割って入って兵力の引き離しをさせるほど相互不信は根強かったとされています。
 朝倉方の大将景隆は弘治2年4月21日撤退していますが、直前の18日にも朝倉軍は能美郡寺井で一揆方を攻撃していたほどでした。
 

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(3)へつづく

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写真撮影 2004.11
本稿は福井商工会議所報「Chamber」2005年1月号「越前朝倉氏と加賀一向一揆との抗争」に加筆したものです。
無断転載はお断りします。

 

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