越前若狭歴史回廊

   

 
朝倉宗滴の奮闘と義景の戦い
 

   

越前朝倉氏と加賀一向一揆との抗争(1)

 永正3年越前国内で本願寺派の一揆が蜂起し、これに応えるかのように7月17日加賀・越中・能登の一揆勢力が加わり未曾有の大軍団となって加越国境を越え越前に進入、その数約30万。軍団は一乗谷に攻め入るため九頭竜川 の右岸(北側)に布陣した。これが史上名高い永正3年の一向一揆「九頭竜川大会戦」で、朝倉氏は戦国朝倉氏孝景から3代目の貞景の世になっていました。 (「九頭竜川大会戦」を参照ください)

 迎え撃った朝倉側の大将を務めたのが若き日の朝倉宗滴(教景)でした。
朝倉方は僅か1万2千とされていますが、宗滴は兵を鼓舞して自ら渡河して一揆勢力を撃ち、朝倉氏を勝利に導きます。

 敗れた一揆軍は、10月に豊原(丸岡)へ来襲しますが、豊原寺西谷明王院と朝倉軍は共同してこれを撃退、また翌年8月には和田本覚寺、藤島超勝寺などは風谷峠を通って越前に侵攻し、帝釈堂付近で待ち受けた朝倉軍と衝突し、多くの犠牲を出して敗退しています。

 この後、朝倉氏は、厳重な本願寺派の禁止政策をとり、吉崎をはじめ和田本覚寺、藤島超勝寺など越前国内の本願寺系の諸寺院をすべて破却し、国外追放処分とし、坊主から門徒に至るまで土地・財産を没収し、加賀と越前の国境は閉鎖となります。

プロローグ
〜 錯乱!加賀 〜


 越前を追われ加賀に亡命した和田本覚寺、藤島超勝寺など越前の大寺は、越前への復帰と加賀での影響力の強化に取り組みます。このことは、加賀に「百姓の持ちたる国」を実現し、門徒上に君臨する蓮如直系の加賀の大寺にとっては、極めて迷惑な話でありました。加賀三ヶ寺(石川郡の若松本泉寺、能美郡の波佐谷松岡寺、江沼郡の山田光教寺)といわれるのがそれです。

 この頃中央でも変化が生じていました。穏健路線の本願寺宗主実如が没し、嫡子円如は早死のため孫の証如が後継者となりますが、幼少のため外祖父(証如の生母慶寿院鎮永の父)の蓮淳が実権を掌握しました。そして藤島超勝寺はこの蓮淳 の娘婿にあたっていたのです。本願寺は、扱い難くかつ体制化して「穏健路線」を採る賀州三ヶ寺ではなく、藤島超勝寺など越前からの亡命大寺と結びつきを強めます。このことは本願寺中央も巻き込んだ加賀における熾烈な権力闘争を引き起こすことに繋がっていきます。これが「享禄の錯乱」といわれるものです。

 なお本願寺中央と結びついた和田本覚寺、藤島超勝寺など亡命越前大寺を大一揆と呼び、加賀三ヶ寺の若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺を小一揆と呼んでいます。
 さて、藤島超勝寺の加賀亡命中の寺院跡と言われるものが、現在も加賀市塔尾(とのお)に残っています。塔尾神社の裏手の山がそれで、巨大な濠跡や土橋、土塁跡が今でも見ることができます。
 塔尾は、車で国道8号から入っていくと、かなり山間の辺鄙な感じがしますが、当時は塔尾から山中へでれば、風谷峠、大内峠越えで越前に至るメインストリートを抑えられる絶好の立地でした。超勝寺は、加賀にもかなりの門徒を有しており、亡命寺院とはいえかなりの規模を誇っていたと考えられます。
⇒塔尾(超勝寺跡)周辺の地図はここ

 和田本覚寺も同様で、後に和田山城(和田坊主の城山の意、現寺井町)を築き、拠点としています。

▼加賀亡命当時の藤島超勝寺跡 ▼超勝寺跡・正面の巨大な壕を土橋が繋ぐ

一方加賀三ヶ寺の一つ、光教寺跡は現在の加賀市山田の光闡坊といわれており、こちらも広大な敷地と南側に巨大な土塁跡を確認できます。
⇒山田(光教寺跡)周辺の地図はここ

 この争乱の背景には室町幕府や管領細川家の内訌も密接にからんでいるのですが、話が複雑になるため、ここではその問題には立ち入らないで、加賀での越前朝倉氏の戦いを中心に見ていくことにします。

小一揆派朝倉氏に救援依頼

 享禄四年五月、小一揆派(加賀三ヶ寺派)は、大一揆派(越前藤島超勝寺や和田本覚寺ら)に先制攻撃を加え、これを白山麓の山間部一帯に封じ込めることに成功しました。ところが、本願寺は大一揆支援のため家宰の下間兄弟に軍勢をつけて加賀国へ派遣しますと情勢は一変します。下間兄弟は三河の門徒をも動員して、美濃、飛騨、白山経由で加賀国内へ侵攻、本願寺の支援を得た大一揆派は七月下旬に反撃に転じ、小一揆の寺院を襲撃し三ヶ寺の一つ若松本泉寺を焼き払います。このため本泉寺の一族は能登守護畠山氏を頼って亡命を強いられ、さらに大一揆側は波佐谷松岡寺(しょうこうじ)も攻撃してこれを捕え、三ヶ寺で残るのは江沼郡の山田光教寺のみとなってしま いました。

▼山田光教寺跡 ▼光教寺跡の土塁跡

 小一揆派も超勝寺弟を敗死させるなど、必死で大一揆派に反撃しながら、越前の朝倉氏に援軍を請います。また能登に逃れた小一揆派も守護畠山氏や越中守護代に加勢を頼み北から加賀へ侵入し反撃を計画します。
 朝倉氏側は、藤島超勝寺・和田本覚寺を打倒する好機とみて、宗滴が大将となり穏健派の三ヶ寺の要請に応えて加賀進攻を決定します。南からは朝倉氏が、北側からは能登畠山氏と越中守護代遊佐、神保氏の連合で攻撃し 、挟み撃ちを目論んでのことでした。
 

享禄四年 朝倉宗滴出陣す!

 享禄4年8月19日、先鋒として朝倉氏の有力外様衆の堀江景忠を大将に300の兵が 大聖寺に進出し、菅生(現加賀市)に陣取り、ついで大将朝倉宗滴とその子景紀が敷地(現加賀市)に布陣します。
⇒菅生・敷地周辺の地図はここ

 そして9月に本折(現小松市街南部)まで進み、北からの能登畠山氏などの軍勢が北側から攻撃準備に入るのを待ちました。能登や越中の軍勢も河北郡太田(現津幡町)に集結したことを確認した宗滴は10月26日本折を出て北上し、湊川(手取川)を越え石川郡 に進攻し攻撃にでます。大一揆側はたちまち崩れ、逃走をはじめたため、朝倉軍は藤塚(現美川町)、番田(現松任市)、土室(現川北町)を焼き払い、討ち取った敵の首7,8百を川岸に架け、兵を一旦湊川の南に戻し、三道山(現寺井町)に陣を置きます。
 藤塚は地名としては残っていませんが、現在の美川町の中心部付近で、神社の名称に名前を留めています。また、三道山は近年の開発で、いまでは山としての面影を見出すことは難しいほど崩され宅地化されてい ますが、頂きの八幡神社で僅かに往時を偲ぶことができます。
⇒湊川周辺の地図はここ

▼藤塚神社(美川町) ▼三堂山跡八幡神社

 しかし、ここから思いもしない方向に事態が進展していきます。28日から大雨となり湊川が増水したのです。朝倉軍が渡河できないことを見た大一揆側は川の北側に残っていた小一揆の勢力を攻撃し掃討作戦に打ってで、これを散々に打ちのめしたのです。小一揆を救出したい宗滴は必死で川上で渡河地点を探しますが大軍を渡河させることは不可能で、何とか救援部隊だけを送り、生き残りを収容するにとどまりました。

 宗滴は軍を渡河させるために、湊川に船橋を設置すべく準備に入りますが、大一揆側は奇策に打ってでます。この日討ち取った小一揆の首や、前日に朝倉軍に討ち取られた自軍の首を、河北郡で能登、越中の兵と対峙している場所まで運び、越前兵の首として晒したのです。

 驚いたのは能登や越中の兵です。多数の晒された首を見て、すでに越前朝倉軍は敗北した思い込み、陣営が動揺します。そして11月2日、大一揆と 小一揆を支援する能登・越中の兵とが激突する太田合戦が展開し 、能登・越中の主だった兵が討ち死にし、大一揆の勝利となります。

 太田合戦の正確な場所は判っていませんが津幡町の太田がその場所と考えられます。現在も能登と越中への分岐点になっており、この東の山をかって太田山と呼んでおりこの山麓から河北 潟までの地帯で激戦が展開されたと見て間違いないでしょう。
⇒太田地区周辺の地図はここ
 

(2)へつづく

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写真撮影 2004.11
本稿は福井商工会議所報「Chamber」2005年1月号「越前朝倉氏と加賀一向一揆との抗争」に加筆したものです。
無断転載はお断りします。

 

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