越前若狭歴史回廊

   

斯波氏との越前支配をめぐる相論(下)
 

   

延徳の相論

足利義材の将軍職継承と六角討伐

 延徳元年三月に将軍足利義尚が鈎の陣所で死去、このため大御所義政が一時政務を見たが、翌二年正月には他界する。すでに義尚の死去後、元西幕府将軍であった足利義視が子息の義材ともども美濃国から上洛して将軍就任の準備をすすめていたが、東幕府の責任者であった細川勝元の子で管領細川政元は、仇敵足利義視の子息義材の将軍後継には強く難色をしめしていた。
 義視は他の東軍幕閣への根回しと、義政亡き後の実力者日野富子の支持によって、七月には子息義材は第十代の征夷大将軍に任ぜられた。東軍であった管領家の斯波氏(義寛)や畠山氏(政長)は他に適材がないこともあり義材を支持し、ここにかっての東軍の盟友間に隙を生む原因がもたらされる。
 その新将軍義材も、前将軍の意志を継承し近江六角氏征伐に乗り出す。延徳三年七月に近江出陣を内定し、八月征討の途についた。応仁の乱後、守護大名の力の衰えは覆いようがなく、幕府はかつての守護大名の連合から足利将軍親裁へと再編強化され、率いる軍勢は 、記録に残る百倍はオーバーだが前将軍義尚のそれをはるかにしのぎ、諸大名にとっては迷惑な再出陣でも、出陣しないわけにはいかない状況であった。

▼将軍義材は近江園城寺に布陣 ▼六角氏観音寺城主郭跡

斯波氏、再び訴訟(延徳の訴訟)に乗り出す

 武衛斯波義寛はこの機を逃さなかった。細川氏の反対のなかで、義材の将軍就任に管領家の斯波氏や畠山氏が支持を与えた恩がまだ冷めておらず、しかも、その年の四月に朝倉貞景と美濃守護代斎藤利国娘との祝儀が成立して越前・美濃の連携が強化され、尾張を拠点とする武衛(斯波)と守護代織田氏が強い危機感を抱いていたからである。
 斯波義寛は再び尾張織田氏の大軍を率いて参陣したが、朝倉氏は斯波氏との衝突を避けるため今回は参陣していない。その中で、斯波氏は当然のことながら越前の「朝倉進退」を訴えた。
 幕府は五ヶ条の調停案を両者に提示した。武衛側は受け入れたものの、貞景側にとっては、守護斯波氏のもとで、守護代は越前については朝倉、尾張は織田、遠江は甲斐の各成敗とする三ヶ条は問題ないものの、二宮氏の越前大野郡 支配と朝倉貞景の武衛斯波義寛への出仕の二ヶ条は、 すでに越前を実質支配している朝倉氏にとって受け入れられるものではなかった。

朝倉退治の将軍御教書出る

 しかし、武衛斯波義寛はこれを履行させるよう将軍に強く働きかけ、十月十一日には「越前朝倉孫次郎貞景退治」の将軍御内書が義寛に下され、将軍の越前遠征まで噂されるに至った。 直後の十八日守護代織田敏定が六角討伐(大津浜決戦)で戦功をあげ、斯波方は「押せ押せムード」となるも、ただ、この時は六角氏と対陣中であり、将軍はもちろん、斯波軍も越前討伐に動くことは事実上不可能であった。
 翌四年二月、近江の戦況が一段落すると、朝倉進退が再び浮上する。そして、「越前国事は、朝倉は国を退き、屋形(斯波義寛)元の如く入国すべきことに治定」と噂されるようになった。朝倉氏にとっては危機そのも のであった。三月八日、 朝倉貞景は在京する朝倉景冬に、応仁・文明以来の将軍御内書と称するものや細川勝元書状など二九通と、それについての朝倉光玖の詞書(説明書)を送付して幕府の訴訟に備えた。
 この一連の文書のなかに、かの有名な応仁の乱の時、将軍義政から朝倉孝景が守護に補任されたとする書状がはじめて登場することになるが、 これが本物か偽物かは別として、本当にこれらの文書が、そのまま幕府に提出されたのかどうかは不明である。
 おそらく提出されなかったのではないかと思われる。いままで、斯波義寛への出仕は拒否しても、守護斯波氏、守護代朝倉氏とすることでは同意していただけに、朝倉氏も今更そのようなことは口に出せなかったと思われる。
 事実、朝倉氏は国内では非公認の守護を推戴していた。ただそれは幕府が認める武衛斯波義寛ではなく、幕府から追討令が出されていたかつての西軍管領斯波義廉の子息(斯波義俊、鞍谷氏)であった。
 

訴訟のその後

 訴訟はかつて朝倉孝景の東軍勧誘に尽力した浦上美作守がとりもち、越前方雑掌は平泉寺法師西蓮坊であったとされる。それだけに朝倉氏には精一杯有利に図ったと思われるが、逆に「東軍への寝返り」の経過を知り尽くしている浦上氏だけに、朝倉氏側ではやりにくい面もあったと考えられる。
 浦上氏は、朝倉貞景が一旦斯波氏(武衛義寛)に出仕すれば、貞景の将軍奉公をその半年後か一年後には認める方向で調停にあたった とされる。
 武衛斯波義寛も、前越前守護代で遠江守護代にある甲斐氏が急速に衰退し、今川氏との緊張が増すなかで、越前に投入できる軍事力は限られており、また斯波氏の軍役を担う織田氏も、同じ斯波氏の被官人である朝倉氏を押さえ込み、斯波氏へ出仕させればそれでよく、武力討伐 という朝倉氏との本格的な戦闘までは望んでいなかったと思われるからである。
 また、この頃一段落していた戦況がまた六角牢人の蜂起で緊迫し、三月二十九日、織田軍は浦上則宗とともに近江愛知河原で戦い、六角高頼を破り再び名を挙げる一方、五月には武衛斯波義寛は将軍の名代として琵琶湖をわたり、守山に陣を敷き、掃討戦を指揮するなど、訴訟だけに拘っているわけにもいかなくなった。

▼愛知河原で激戦となる ▼幕府軍本陣慈恩寺(現浄厳院)

 十一月六角陣営は瓦解、六角高頼は伊勢に逃亡し、将軍義材は京に帰還した。
 そのような中、訴訟問題の結果は不明となった。
 朝倉氏にとっては最大の危機であったが、逆に、「朝倉退治」の御教書まで出されるなか、討伐を事実上阻止したわけで、背景には、一万を超える演s部隊を保持しているその軍事力があった。

細川政元のクーデターと将軍義材の没落

 翌明応二年二月、将軍義材が畠山政長の要請で河内 正覚寺に出陣したさいには、朝倉方は大野兵を中心に二千の兵を送ったが、織田軍を率いて出陣した武衛斯波義寛は今度は訴訟を提起しなかった。最早訴訟だけでは片付かないことを知り、自軍だけではなく 、今回の河内出陣の畠山政長と同様に、将軍を引き込み、大軍で攻め込むことも考えていたと思われる。
 しかし、それも管領細川政元のクーデターで将軍義材が廃され、政長が自刃し、河内出陣が予想もしない結末を迎えることで不可能に至るのである。もちろん細川氏だけでこのような大それた事はできず、黒幕は 「上様」日野富子であった。義材にとってかつて自分を支持してくれた富子の離反は致命的であった。

 五月二日、河内から京に戻った朝倉軍の精鋭は、皆甲冑に身を固め、その勇壮さは人々の目を引いたといわれている。そして、臣下が将軍を廃するという前代未聞のクーデ ターで 、応仁の乱を経て幕府権力の強化に向かっていた室町幕府は、大名の統率力を失っていき、衰退に向かうことになるのである。

 この後も前越前守護代甲斐氏の残党は執拗に越前攻撃を繰り返すが、もはや朝倉氏の越前支配が揺らぐことはなかった。
 

Copyright (c) 2003 H.Okuyama. All rights reserved.

 

TOPへ戻る

 

inserted by FC2 system