越前若狭歴史回廊

   

斯波氏との越前支配をめぐる相論(上)
 

   

長享の相論

将軍義尚の近江下向(六角討伐)

 長享元年(1487年)将軍足利義尚は六角討伐を掲げ近江に出陣した。
 応仁・文明の乱以降、近江の六角高頼によって押領されていた寺社領・諸荘園の回復を望む公家・寺社本所らの要求 と、近江には多数の奉公衆が所領を与えられており、六角勢の侵略が将軍直属の奉公衆の所領にまで及んでおり、幕府としても放っておけなかった ことも事実である。
 青年将軍
義尚の出陣は、将軍としての権威を天下に誇示することもそのねらいであった。
 八月、将軍足利義尚は全国の守護大名に近江出陣を命じ、翌九月十一日にその先陣として、伊勢貞陸を近江坂本に下向させ、翌日には将軍自らが近習・番衆数千人とともに出陣した。将軍の親征は足利氏の幕府が安定してからは例が無く、自ら鎧を纏い出陣する青年将軍の勇姿を見ようと京の大路は人々で埋め尽されるほどの混乱であったという。
 室町幕府は、守護大名の連合・宿老政治の性格を有しているといわれるが、応仁の乱を経るなかで、将軍義尚は、これら守護を抑制し、将軍権力の強化(親政)に乗り出していた。この延長として六角討伐・近江出陣であった。
 管領細川政元をはじめ守護大名側は、社領・諸荘園の押領はどこでも行なっていることであり、親征に否定的であったが、対応を間違えると自身が討伐の対象になりかねないため、各大名 ともしぶしぶ出陣し、順次坂本に着陣した。

斯波氏、長享の訴訟に乗り出す

 この時、尾張から出陣した武衛斯波義寛と朝倉氏との間に、越前国宗主権をめぐる訴訟問題が持ち上がる。これが「長享の相論」といわれるものである。

 将軍親征の目的が寺社領・諸荘園の押領停止であるならば、その典型ともいえる朝倉氏の越前押領の非を訴える斯波氏の主張は、正当なものであるだけに、幕府にとっても厄介な案件であった といえる。

 武衛斯波義寛(義良)は、将軍の命に応じて尾張から岩倉・清洲の両尾張守護代家を従え、数千の兵を率いて九月晦日坂本に着陣、三日には将軍義尚のもとに出仕した。なお、翌四日には将軍義尚は坂本から湖東の鈎に陣を進めている。
 一方、将軍義尚は朝倉氏にも出陣を求めていたたため、朝倉方も先兵として敦賀郡司の朝倉景冬が同月十九日に坂本に着陣した。
 武衛義寛は、この状況を見て、ただちに越前国宗主権回復のため「朝倉進退」について幕府に訴えた。
 この頃朝倉氏はすでに戦国三代貞景の治世に入っていたが、家督継承直後、斯波氏との相論という難題にぶつかったわけである。対応を一歩間違えば破滅につながりかねない大事件であったといえる。
 貞景も一乗谷から出陣したものの、事態の推移を見守るため敦賀に滞陣し、近江には入らなかった。

訴訟の経過

 斯波武衛側は「朝倉は斯波家の被官でありながら寺社領・諸荘園領を押領し、越前一国を差配、討伐すべし」と主張し、まさに今回の将軍義尚の近江出陣の趣旨に合致した内容で訴えでたのである。
 また、かっての越前守護代で遠江守護代にある甲斐氏が、この機を狙って越前への進攻を準備するなど、斯波武衛側として強硬な姿勢もちらつかせながら、幕府への圧力を強めていった。

 しかし、管領細川政元は、当然のことながら長年のライバルで三管領筆頭にある斯波氏に対して冷ややかであったし、それ以上に荘園押領等が討伐の原因となれば、将軍の思惑で全国の守護大名がいつでも討伐の対象になりかねず、将軍権力のこれ以上の強化を望まない管領政元にとっては迷惑な訴訟であったことは間違いない。

 幕府は、十月下旬、先ず、越前進攻・奪還を試みようとする前越前守護代甲斐氏を停止させ、十一月二日には管領細川政元が将軍の命として越前支配については「守護は斯波氏で朝倉氏が守護代の地位にある」としながらも、「朝倉は忠節によって将軍の直奉公分になった」として武衛に名代を出仕させ、その名代を守護代とするという解りづらいものであった。
 簡単にいうと、越前支配については、守護は斯波氏、朝倉氏は守護代であるが、朝倉氏は直奉公分になったため、朝倉氏が直接守護代というわけにもいかないため、名代を守護代として、朝倉氏は武衛に公用銭を納めるというわけで、現状追認のなかで武衛斯波氏の顔もたてるというものであった。

 しかし、武衛斯波義寛はこれには納得せず、十一月十一日、越前支配の実質は時節を待つにしても、武衛の被官人である朝倉氏が直奉公分と認められ、幕府に出仕することは絶対に認められないと 尾張守護代織田敏定を名代として強く反発した。
 一方の朝倉氏も、十二月二四日、越前平定が朝倉氏の犠牲のうえになされたこと、そして朝倉氏の祖先は将軍の直臣であったことを強調するとともに、文明三年五月に朝倉氏が東軍に寝返ったさいに孝景の子である氏景が直接将軍義政の謁見を受けたことにより、直奉公分に認められたと反論を提出したのである。

 一見してわかるとおり、論点は朝倉氏が斯波氏の被官なのか将軍の直奉公分なのかが争われているのであり、守護は斯波氏を前提にしての話なのである。斯波氏も朝倉氏の越前守護代までは否定していないとみるべきであろう。

 実はこの時、前将軍の義政は東山山荘の造営にかかっており存命であり、朝倉氏は後世のように、「将軍義政から越前守護に任ぜられた」と主張できるような環境ではなかったのである。
 朝倉氏が、将軍義政から越前守護に任ぜられたと出張するのは、将軍義政没後のことなのである。 この時期はまだ、義政存命のため守護職のことは全く口にせず、直奉公分かどうかを争っているのが面白いところであり、また、このあたりが、長享の訴訟のわかりづらいところで もある。

訴訟の結末

 一方、将軍親征の目的である六角討伐は、早々と六角高頼が逃亡したにも係わらず、義尚は陣を引き上げず、逆に下鈎の真法館(現永正寺付近?)に陣を移し、ここに陣所(御所)を造営し、長期戦に備える体制をとりはじ める。しかし、本格的な戦闘がないままに 、徒に文芸や武芸の催しに終始することになる。

 このような中、十二月九日には武衛義寛に従っている守護代織田氏の岩倉方の広近(敏広弟)の陣所(近江守山)で出火する事件があり、鷹二羽、馬三頭、武具家具などの相当の損害がでた。これといっ た戦いが無いなかでの長滞陣であり、これを機会に陣払いが具体化したものと考えられる。
 訴訟のほうも、年末にいたっても武衛と朝倉氏の相論は一決していないという状況であり、これ以上の進展は無いとの判断であろう。

 あけて長享二年二月二十三日、武衛斯波義寛は、手勢を率いて近江から京に入り、前将軍義政を東山山荘に訪ね、そのまま父義敏がいる武衛邸に入り鈎には戻らなかった。そして、陣払いを指示したらしく、三月四日、織田軍も近江から尾張へと軍を引き上げた。

 武衛義寛は、細川氏牽制のため京の邸宅(武衛陣)に留まることを予定していたと考えられるが、近江から尾張に帰国した清洲と岩倉の両尾張守護代家に再び争いが起こり、尾張国は争乱状態となったため、九月には、義寛も やむなく尾張へ下国、訴訟自体も自然消滅したと考えられる。

 結局、長享の訴訟は結果がはっきりしないままに終わったといえるが、朝倉氏の直奉公分については、 武衛の意に反して認められる結果に終わったといえるだろう。しかし、越前宗主権が決定しないということは依然守護は斯波武衛家であり、この点では、根本的な問題の解決には至らなかった。

 朝倉氏はその後、朝倉景冬が義政の東山山荘の松の移植を手伝うなど、直奉公分としての手伝い普請を果たしている。

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将軍義尚の鈎陣については
主サイト「越前若狭歴史回廊」のなかに探訪記事があります。

 

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