朝倉氏台頭す! 長禄合戦 (下)
長禄二年、義敏派越前制圧
和睦が成立し、代官職が守護代甲斐方から返されることになると、国人たちは当然土地の返付を求めたが、代官職返付は順調には進まず、両者の対立は依然解消されない状態が続いていた。
幕府は、和睦がなったものとして、六月に武衛斯波義敏と甲斐常治に関東公方追討の命を出すが、越前をめぐる状況から両者とも動くことはなかった。そのような中で実力者甲斐常治が病の床につく。
この機を逃さず、七月、義敏・国人方
が蜂起し、甲斐方との代官職返付をめぐる越前国内における最初の合戦が起きたという。この戦闘では甲斐・朝倉氏ら甲斐方の勝利に終わったが、しかし翌八月、義敏方の国人堀江石見守利真が京都から越前に下国すると状況は一変する。甲斐方の敦賀代官大谷将監らを討ち、甲斐一族らを越前から追うなど勝利をおさめた。そして九月以降には斯波氏の被官人らも京都から入部し、国人とともに荘園諸職を獲得した。また、甲斐方であった小守護代は、義敏によって堀江利真・池田勘解由左衛門尉が任命され、越前は義敏方の国人たちによって制圧されることになった。
堀江氏は河口、坪江の荘を中心とする国人層で、この頃は番田を拠点としていた。番田屋敷跡は昭和初期まではその遺構が残っていたが、京福三国芦原線の敷設で土塁跡なども取り崩され、現在は館跡の碑を残すのみである。京福線の番田駅から目と鼻の先である。なお、堀江氏の館跡は複数あり、
下番には館跡の遺構が僅かに認められるほか、墓石なども発掘されている。(地図はここ)
越前支配を強めた堀江利真は、越前国内ではどこの荘園領主であっても守護義敏の許可がなければ直務支配を認めないと恫喝しながら、代官職の獲得と越前支配に繋げていった。
▼番田の堀江館跡碑 |
▼中番の堀江氏菩提寺龍雲禅寺 |
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この事態に対応するため、甲斐氏も十一月一日には、甲斐常治の子敏光や朝倉孝景らの軍勢が、京から近江の海津を経て越前に向かったが、堀江方は越前入国を阻止し、海津まで押し返し、また加賀から侵入して金津を焼き払い堀江氏の拠点番田(現
芦原町)を攻める甲斐勢に対しても、堀江方は応戦した。
このような越前の状況に対して、将軍義政(幕府)は、甲斐方支援に立ち戻り、国人層をバックアップする義敏を遠ざけるため、十一月十五日までに関東討伐に出陣するよう武衛義敏に厳命した。やむなく京を出陣した義敏であるが、
越前の情勢が気がかりで近江・小野に滞陣し、それ以上は動かなかった。
長禄三年、甲斐方の勝利
翌年に入ると、両者の合戦は越前にとどまらず、尾張など斯波氏の領国全体にまで拡大する様相をみせはじめたという。
そこで幕府は、これが大乱に発展することを避けるため再び両者の和睦を図ることにし、二月に真西堂(蔭凉軒真蕊)を和睦のための使者として敦賀郡疋田に派遣するも、甲斐氏は応じたものの義敏方の国人たちはこの和議に反対、結果調停は不調に終わった。
この状況を知った甲斐方は憤激し、合戦はただちに再開。幕府も甲斐氏支援を明確にすると今度は、戦況は甲斐方有利に展開しはじめる。
二月堀江方は甲斐方の中心でもある朝倉孝景の拠点一乗谷に攻撃をしかけ阿波賀木戸口に合戦となるが、留守を守る祖父教景(心月)の指揮のもとで朝倉氏はこれを防いでいる。この頃すでに一乗谷は朝倉氏の拠点となっていたことがわかる。安波賀にある春日神社はこの戦いで焼け、後、孝景によって再建されることになる。
(地図はここ)
なお日下部朝倉系図ではこの戦いを寛正元年としているが、一年前の長禄三年と見るのが妥当であろう。
▼一乗谷安波賀付近 |
▼安波賀春日~社 |
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さて、二月中旬までに、甲斐氏の軍勢は各地で優勢に転じ守護方・国人層を破っている。
三月には将軍義政は若狭守護武田信賢や能登守護畠山義統、近江守護両佐々木氏、および越前の寺社本所領に対して甲斐氏へ合力することを命じるなど一層その旗色を鮮明にする。堀江方は戦局打開のため、甲斐氏の拠点敦賀城に兵を出すものの苦戦が続いた。
この事態に、近江に滞陣していた斯波義敏は関東討伐のための軍勢を突然越前に差し向ける。五月十三日、二百人の兵が守っていたという甲斐方の敦賀城(金ヶ崎)へ攻撃を始める。
しかし、すでに幕府(将軍)から近隣の守護や国人層に義敏勢の退治、甲斐氏支援が命じられ、敦賀に入っており、敦賀城の甲斐方の士気は高かった。義敏は船五十艘で海上からも攻撃をしかけるが、これが裏目にでて大風により斯波方
が大敗し、このため一万余の兵を擁していたという義敏方は八百人余の戦死者を出して退散した
。
さらに、越中・能登・加賀の軍勢も将軍からの命令を受け、二十五日北から越前へ進攻し、二十七日に甲斐方の軍勢によって府中が押さえられ、甲斐敏光も入府すると、堀江方は越前からの撤退を余儀なくされた。六月一日甲斐氏と行動をともにしていた朝倉孝景もようやく北ノ庄に到着した
。ここまで21回の合戦を乗り切っての到着であったという。
幕府の命を無視し関東征討軍を甲斐方攻撃に差し向け、大敗した義敏は将軍足利義政の怒りをこうむり、守護職を剥奪されて周防の大内氏のもとに没落する。
斯波家督と守護職は、義敏の子の松王丸(三歳)が継承した。 最後の決戰・和田合戦
しかし、敗れて越前を追われていた堀江勢は、七月になると再び勢力を盛り返して越前に侵入し、同月二十三日には坂井郡長崎に陣を取り、南下。そして八月十一日、ついに堀江方と甲斐方との間で越前の支配権を賭けた最後の決戦・和田合戦(現福井市和田)が始まった。合戦のあった和田は、足羽川北側で
、新国道八号と大野街道(一五八号)が交差するあたりで、今では戦いの跡を感じさせるものは何もないが、南北朝時代からこのあたりは交通の要所として、重視されていたのである。
(地図はここ)
堀江方には、堀江利真兄弟父子五人をはじめ越前居住の朝倉庶子家である朝倉豊後守父子・同新蔵人・遠江入道子・同掃部や、平泉寺大性院・豊原寺成舜坊などが加わった。一方甲斐方には、甲斐・織田・朝倉惣領家の朝倉孝景をはじめ、堀江氏の庶子である本庄・細呂宜の各氏などが参陣した。
戦いは夕暮れ近くに、朝倉孝景の奮戦で甲斐方の大勝利となり、守護方大将の堀江石見守利真父子兄弟をはじめ、反孝景にあった朝倉庶流一族も含め七百余人が討ち死した。
エピローグ 朝倉氏の台頭
和田合戦は甲斐氏の圧勝に終わったが、その戦いの中核となったのが、朝倉孝景である。朝倉氏は、但馬国養父郡出身で、南北朝時代に越前守護斯波高経に従い、越前に入部し、戦功をあげ定着した。この決戦では、一貫して甲斐氏に従い、守護義敏と堀江氏など有力国人層と戦い、特に、堀江氏などと結んだ朝倉氏一族内の反孝景派の庶流一族を一掃し、惣領家の覇権を確立した意義は大きかった。
さらに、戦いの翌日、京都にあった越前守護代甲斐常治が病没、名門甲斐氏にも秋風が吹き始めるなか、朝倉孝景が相対的に浮上する。
この後、斯波氏の家督争いに、畠山氏、将軍の後継争いが加わり、京の大半を焼失させる応仁の乱へと歴史が激動していくが、きっかけとなる「上御霊社の戦い」が起きると、その攻撃のなかに朝倉孝景の姿があった。
越前守護代甲斐氏とともに西軍に属した孝景は、応仁の乱でも大活躍する。しかし、甲斐氏とともに戦う限り甲斐氏の配下から逃れられないことを悟った孝景は、やがて越前守護代就任を条件に東軍に寝返り、越前の覇権をかけて今度は甲斐氏と越前で死闘を展開することになるのである。
その後の朝倉氏と一乗谷の繁栄は、これらの流された膨大な血のうえにあったのである。
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