越前若狭歴史回廊

  朝倉氏台頭す! 長禄合戦 (上)


 南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏は根本分国である越前の守護のほかに尾張、遠江守護も努め、三管領筆頭として幕政に重きをなしたが、京の政務から離れられず、分国経営は執事も兼ねる守護代の甲斐氏に委ねざるをえなかった。
 越前守護代甲斐氏。守護斯波氏が「将軍と同格」なら、守護代甲斐氏は「管領と同格」扱いで、陪臣の身でありながら前例のない室町将軍の行幸を毎年のように得ていた。
 この関係は斯波氏の権威が保持されている時は、問題がなかったが、斯波氏に若年の当主が続くと、反比例するように守護代甲斐氏の力が増大、ついにその矛盾が表面化する。

プロローグ 斯波義敏の家督継承

 享徳元年(一四五二)九月一日斯波家の当主(武衛と呼ばれた)義健が十八歳の若年で死去した。義健には子がなかったため、支族である斯波持種の子で同じく十八歳の義敏がその家督を継ぎ、越前をはじめ尾張・遠江の三か国守護職を継承した。
 斯波持種は大野氏ともいわれるように、大野の犬山城を居城 としていた斯波氏の庶流で、一時は加賀の守護職にもあった支族である。
 室町期の斯波氏の大野支配の拠点がこの犬山城で、今でも良く遺構が残っており、標高百八十mの主郭(本丸)からは亀山も含め大野盆地を一望できる。最近は大野街道から大野盆地に入る直前でバイパス、新丁トンネルが開通し、これを抜けると犬山の麓にでる。 (犬山付近の地図
 さて、はじめは守護代甲斐氏や織田氏、朝倉氏も当然斯波義敏を支持し、若年の当主続きで威勢に翳りの見えた斯波氏も、ここで往年の権威回復が期待されるところであった。
 しかし、事態はそうはすすまなかった。
 庶流から養子に入った義敏は、当然ながら斯波家当主としての力の回復に乗り出し、しかも庶流であるため越前の在地事情に詳しく、府中守護所(現武生市)を拠点に実質的に越前を経営していた守護代甲斐常治との対立は時間の問題であったといえる。

越前守護代甲斐常治

 越前守護代甲斐常治は斯波義淳・義郷・義健とすでに三代にわたって、斯波家執事兼守護代として仕えており、前述のとおり、陪臣では甲斐氏以外に例の無い室町将軍の行幸を毎年六月頃にえられる家格にあった。
 甲斐氏はもともと斯波家の執事出身で、最初から越前国内に基盤があったわけではないが、「将軍と同格」の斯波氏の家宰として、徐々に幕府内での地位も向上し、それに加え斯波家に若年の当主がつづくなかで、在地支配体制を整備強化し、このころには実質越前支配を手中にしていたと考えられる。 もちろん権力の源泉である斯波氏を推戴しながらの話であるが。

  一方、義敏の父親である庶流斯波持種と甲斐常治は積年の対立関係にあった。
 五年前の文安四年(一四四七)には持種と常治の対立から、持種派の被官人が中心となり、反甲斐同盟を結び、四月二七日には斯波氏の邸宅から北西方向に少し離れた常治の屋敷に放火し、さらには軍勢による攻撃にまで至ろうとした。幸いにこの時は、吉良氏の仲介で事態は一応の収拾はするものの、義敏の父である斯波持種や斯波家臣たちと甲斐常治の対立は根深いものがあった。

守護と守護代、守護代と国人層の対立

 なぜこのような対立にいたったのであろうか。
 これには将軍(幕府)の思惑も密接にからみあっていたと考えられる。幕府は守護大名の力を抑制するために、この頃、守護を飛び越して守護代クラスとの結びつきを強める傾向にあった。
 特に、家格の高い斯波氏については、そうであった。かつて、弟分の渋川氏を引き連れて将軍の前で系図をひけらかしていた斯波氏(足利尾張家)は、門地意識が高いだけに、将軍義政としては守護斯波氏抑制のため守護代甲斐氏、織田氏、朝倉氏との連携を一層強めていった。また甲斐氏側も獲得した守護代としての権益を維持するために、より上級の将軍権力と結ぼうとするのは自然の流れであった。
 しかし、在地では事情が違っていた。
 甲斐氏、朝倉氏など宿老が分国支配の実権を握り、自分達の一族や諸将で荘園の代官職などポストをつぎつぎ獲得、国人層を圧迫していたのである。
 国人たちは、守護代甲斐氏や朝倉氏に反発を持っており、越前の在地事情に詳しい義敏の守護職就任を契機に、失地回復に強い期待を持ったことと思われる。新守護義敏にとっても、甲斐氏を押さえ込み、権力を回復するために国人層の支持は欠かせないものになっていった。
 こうして、両者の対立は、激化することはあっても、和らぐことは望めない情勢へと、緊張を増していくことになったのである。

義敏方と甲斐方の抗争

 康正二年(一四五六)五月、守護義敏と守護代甲斐常治の対立はもはや抜き差しならないところまでいっていたと考えられ、義敏は甲斐氏の非道を幕府に訴え、将軍親裁でこの問題に決着をつけようとした。守護義敏は、自らに有利な将軍の親裁が出ることに期待を寄せていたが、結果は守護代甲斐氏に有利となる裁定で、訴えが裏目にでた。
 一説には幕府政所執事で影の実力者伊勢貞親が甲斐常治の妹を妾としていたため、甲斐氏有利の裁決となったともいわれているが、根本的には、義敏の国人層と結びついた越前での守護領国化が 、将軍義政(幕府)の政策と基本的なところで相違していたからである。
 寺社・本所領の保護、守護領国化阻止という将軍義政の政策のもとで行政機構を押さえる甲斐氏側に有利な裁決が出るのはあまりに当然のことであった。

 この裁定に憤った守護義敏は、長禄元年 (一四五七)正月、斯波家の菩提寺である東山東光寺に父親持種とともに出奔し、引き篭りで抵抗にでた。
 斯波氏の邸宅は武衛陣とよばれ、室町通り勘解油小路(現在の京都御所の西側)にあり、現在は平安女学院が建っているが、武衛陣の周辺には、甲斐氏をはじめ織田氏、朝倉氏重臣達の屋敷が並び、 かつての斯波高経の屋敷地である故地三条には斯波氏の下屋形もあった。
 武衛陣(室町勘解油小路)の場所は、後の将軍義輝の御所や、最後の足利将軍義昭の二条城が置かれた場所でもあり、「此の付近斯波武衛陣」の石碑が学校の敷地内に建っている。
 
▼斯波邸跡(現平安女学院) ▼義敏が篭った東光寺跡(東山)
地図 地図

 義敏が引き篭もった東光寺は、同名の寺は京都でも複数あるが、斯波氏の菩提寺となれば、斯波高経か高経の死後その子の義将によって建立されたと見るのが妥当で、現在の東山霊山にあった東光寺に比定できる。南北朝期に創建され、応仁の乱で焼失したものの、その後義敏によって再建され、戦国末期まではかろうじて堂宇を維持していたが、斯波氏の滅亡とともに廃寺、正法寺の塔頭となり、幕末には西本願寺の別荘として買収され、維新史跡の一つともなっている所である。

 さて三管領筆頭の義敏の引き篭もりであわてたのは幕府である。このころ将軍義政(幕府)は関東公方足利成氏の討伐を進めており、その大将に武衛斯波義敏をあてにしていたからである。軍事面では細川氏や畠山氏を使う手もあるが、相手はなんといっても関東公方である。将軍が親征するか、その代わりとなる旗印となれば当然斯波氏であるし、遠江の軍勢に加え、奥州探題大崎氏や羽州探題最上氏など奥州斯波一族の援護で南北からの圧力が期待できるわけである。

 そのよう な中で十一月事件は起きる。
 東光寺の義敏に従う越前の有力国人層や斯波氏の被官人二七名が洛内において、甲斐氏に近く段銭徴収を請け負っていたらしい田上某という人物の京宅で乱暴を働くという事件を起こしたのである。これに対して幕府は、甲斐氏をはじめ朝倉・織田勢に鎮圧を命じ、一人も残さず被官人達を討ち取らせた。

 しかし、幕府の関東政策からも、また放置すれば越前で内乱にまで発展しかねず、事態を憂慮した幕府は甲斐氏に和睦を命じることになる。
 翌長禄二年(一四五八)二月二十九日、両者の和睦は成立し、武衛義敏は幕府に出仕、義敏方の 被官所領はすべて「元の如く」安堵されることとなった。しかし、守護代甲斐氏の越前支配強化姿勢は変わらず、事態はやがて両者による越前一国の支配をかけた合戦 ・長禄合戦へと突入する。

(下)につづく
 

 


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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2003年7月号に掲載した記事を加筆したものです。無断転載はお断りします。 尚、主サイト「越前若狭歴史回廊」に要約版「長禄合戦  〜朝倉氏の台頭と自立への途〜」を掲載しています。

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