越前若狭歴史回廊

 安養寺・ 将軍義昭御所


 永禄八年(一五六五)五月十九日、松永久秀と三好三人衆は、将軍足利義輝の御所を 襲撃し殺害した。義輝の二人の弟のうち、末弟の鹿苑院主周ロも暗殺されたが、次弟の興福寺一乗院門主覚慶(後の将軍義昭)のみは奈良にあって難を免れ、厳しい監視を逃れ奈良を脱出、七月二十八日夜に近江国甲賀郡の和田城に入った。

 覚慶は翌九年二月一七日に還俗して義秋と称し、四月には将軍に任官されるための前提となる従五位下左馬頭に任じられたが、畿内情勢の切迫で八月二十九日に妹の婿である武田氏を頼って若狭に入った。しかし、若狭では当主の義統と子の元明との対立や有力家臣の争いで崩壊寸前にあり、九月八日には朝倉氏を頼って敦賀に入った。
 朝倉氏はこのとき堀江氏の反乱に対処していたので、その乱が収り、御所造営のなった永禄十年十一月二十一日夜、義秋(義昭)を一乗谷の安養寺に迎えた。

 安養寺は、一乗城山の西麓に位置し、東新町の北東字安如寺にあった。浄土宗で、文明五年(一四七三)朝倉孝景が建立したとされる。開山は顕要で、朝倉滅亡後の天正三年(一五七五)北 ノ庄へ移った。
 大永六年(一五二六)の「真盛上人往生伝記」によれば、長享二年(一四八八)八月に朝倉貞景に招かれ安養寺で説法を行い、朝倉氏の保護を受けることになる。
 また、天文一六、七年(一五四七、八)には一乗谷に寄寓していた儒者清原宣賢が安養寺で「大学」「中庸」などを講じている。
 

▼安養寺境内跡1 ▼安養寺境内跡2


 義秋(義昭)の御所はこの安養寺の隣に新築されたと考えられ、字名で「五所」が北隣に残っている。
 昭和四五年(一九七〇)その一部を調査した結果、遺構の一部と多量の土器・漆製品などが出土し、また安養寺跡からは約三〇〇枚の古銭も出土している。
 

▼御所跡一帯 ▼御所跡標

但し、道路からは何の標識も出ていない(2002年9月現在)ので、気がつかないケースが多いので註意。

 

地図はここです
 


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