越前若狭歴史回廊

 朝倉氏遺跡 庭園跡


 小京都といわれた一乗谷には京都の影響を受け、林泉庭園に類する多くの庭園が残されている。
 これらの庭石の一部は、地上に出ていたため、古くから専門家には知られ、昭和五年には名勝指定がされているが、その全貌があきらかになったのは、昭和40年代の本格的な発掘によってである。
 特に朝倉氏遺跡の場合は後世の手が加えられておらず、中世日本庭園の実像だけでなく、庭園史に占める位置も大きいとされている。

 

館跡庭園(やかたあとていえん)

 館跡庭園はその名の通り朝倉館跡にある。諏訪館庭園と庭石組みの構成が酷似していることから、同じ義景の代の作庭と考えられている。東南の斜面を背景にして構築されており、東側急斜面に、つづら折れに流れ落ちる庭池への導水路が築かれている。 (右側写真参照)
 浅い園池には平らで大きな川石がびっしり敷き詰められている。こうした形式の類例は、全国的にも少ないという。また、庭石の一部に海石である越前産の安島石が7、8個使われている。安島石は庭石として一級品という。 なお、一部の護岸石に建物の礎石と同じものが使用されているとのことで、そうであれば、やはり義秋の下向に合わせて作られたものと見ることができる。

 

湯殿跡庭園(ゆどのあとていえん)

 湯殿跡は、朝倉館跡を見下ろす海抜63m高台にある。いつ、何代目の当主が建て、だれが住んだか、文献、資料がなく分からない。またどんな館だったかも充分には分っていないが、東北隅から、西南隅にかけて、東南に面して鍵状に建ってい たと考えられている。おそらく客殿として利用されたのではないかと考えられる。
 発掘された庭園は、「観音山」という小山を背景にして、南北に長く、池は、深さは50cm程度であるが、かなり入り組んだ形をしている。石組みは山側に屏風のように大きな石が立っており、幅、長さなどで二米を越える石もある。戦国の気風を漂わす荒削りで力強い石組みから、四つの庭園の中で最も古いと推定されている。
 なお、現在は水が引かれていないが、発掘調査の結果、導水路や排水路の跡が確認され、往時は清水をたたえていたと考えられる。
 昭和42年に発掘された南側に、空濠の石垣が残っている。

 

諏訪館跡庭園(すわやかたあとていえん)

 諏訪館は、朝倉五代当主義景が4人目の側室「小少将」のために造ったと伝えられる館で、その庭園は遺跡に特別名勝に指定されている4つある庭園の中でも最も規模の大きな庭園となっている。
 義景は最初、管領家の細川氏の娘と結婚するが、まもなく死別。近衛家の娘と再婚するもこれは離婚、3人目 に朝倉時代の越前守護でこの頃には客臣化していた鞍谷氏(義廉流斯波氏)一族の娘を側室に迎え、愛児・阿君(くまぎみ)をもうけるものの早世(毒殺)し、また妻も 死去。そして4人目の側室として家臣・斉藤兵部少輔の娘「小少将」を迎え、一子・愛王丸をもうけた。
 庭園は上下二段構成からなり、上段は小規模な滝石組み。下段の中央、カエデの古木の下には、高さ4.3mにもおよぶ立石を使った豪壮な滝石組みがある。なお、高さ4.3m、幅2.5mある石の表面には氏景、貞景、孝景の法号が陰刻されているが、これは弘化三年(一八四六)心月寺十八世月泉和尚の筆になるもので江戸時代のものである。
 滝口の前方に水分け石が置かれ、左側の池尻には立派な石橋がかけられている。一乗谷の庭園の中でも最も規模の大きい庭園である。なお池泉回遊式庭園では、日本でも第一級の豪華さを誇るといわれてい る。
 県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館には当時の諏訪館の屋根板の重しや、魔除けとして棟先に据えられていたと思われる「鬼瓦」が展示保存されている。


 

南陽寺跡庭園(なんようじあとていえん)


 南陽寺は朝倉館の東北二百mの高台にあり、朝倉氏代々の女性が尼僧として住んだところである。現在は庭園の一部が残っているだけだが、当時は堂をはじめ多くの建築物があった。

 庭園は山裾にあり、小規模なものであり、滝石組は諏訪館庭園に通じるものがあるとされている。導水路や排水路はいものところ確認されていない。
 この庭園は、永禄十一(一五六八)年三月、五代・義景が一乗谷に来た足利義秋(義昭)を招いて宴・歌会を催した場所でもある。

 庭園に咲き誇る糸桜を眺め、二人が詠んだ歌の碑が建てられている。(右側写真)

 


 

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