越前若狭歴史回廊

 朝倉氏遺跡 朝倉館



 

朝倉館(あさくらやかた)

 第五代義景の居住した館で城下町である一乗谷の中心部にあり、東の山城を背にし、その山裾の約百m四方の平坦地に造営されたもので、東を除く三方に高さ1.2〜3m程の土塁を廻し、その周りに幅約8m、深さ約3mの濠をめぐらしている。

 三方の土塁にはそれぞれ門が設置され、西を正門としている。また、濠をへだてた南には、関連屋敷の拡がりも予想され、西方には、馬場が存在したと記録されている。東の山裾は、一部がこの館に取り込まれ、一段上った平坦部には、「湯殿跡」と伝称される庭園等も残っている。
 館内の平坦部は約6,400uあり、その中のやや北東よりに17棟の建物が整然と建ち並んでいた。多くの建物は、東西約21.4m南北約14.2mの常御殿 (右側写真)とみられる館内最大の建物を中心に、その南方に花壇、庭園、主殿、会所、茶室など表向(接客)施設群と、北方には台所、厩、湯殿、蔵などの内向の日常生活施設群、そして土塁上の隅櫓と警護施設群 が整然と配置されていた。
 その後の研究で、当初西半分で完結していた館であったが、足利義秋(義昭)を迎えるにあたって東山麓を削り拡張していたことが、建物の方位のずれや柱の寸法の違いでわかってきた。
 発掘による成果をもとに、京の将軍御所や管領家も参考にして朝倉館復原模型が製作、資料館に展示されている

 

唐門(からもん)

 義景館跡の正面、濠に面して建つ唐門は五代義景の菩提を弔うために 建てられた松雲院の寺門。豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられ、幅2.3mの向唐門形式で、質素な中にも堂々たる気品を伝えてい る。(但し、朝倉時代の遺構ではないので注意)
 朝倉氏遺跡関係の写真として必ず登場する定番品。春には門の内側にある桜の満開にあわせて写真をとるため混雑する。
 現在のものは何らかの理由で江戸時代中頃に建て替えられたもの、門内の上部には朝倉家の「三ツ木瓜」の紋と豊臣家の「五三の桐」が刻まれている。

 

日本最古の花壇

 昭和43年朝倉館跡を発掘中、歴史的な新発見があった。常御殿の南側中庭で花壇跡が見つかったのである。東西で9.8m、南北で2.8mの長方形の形をしている。花壇としては日本最古の遺構である。
 当時の有力武家屋敷や貴族の邸宅に花壇がもうけられていたことは、資料からわかっており、また朝倉氏も館内に花壇を設置していたことは公家の日記からもわかっていたが、遺構の発掘は初めてであり、大発見であった(四代孝景の時、富小路資直が一乗谷を訪れ記録している)。
 なお、残存花粉の調査から植えられていたのはキク科、ユリ科、アブラナ科の花であることがわかっている。
 ただ、朝倉館に花壇は以前から存在したとしても、発見された花壇はその場所からみて足利義秋の一乗谷下向にあわせたものと考えられる。
 


 

館跡にある朝倉義景墓

 館跡の東南隅旧松雲院墓地内にある。朝倉義景は、天正元年(一五七三)八月二〇日、大野六坊賢松寺で一族の景鏡の裏切りにより自刃。法名は松雲院殿太球宗光大居士である。現在大野市にも義景の墓があるが、これは江戸時代に建てられたもの。館跡の墓は天正四年村民の建てた小祠が始まりで、寛文三年(一六六三)福井藩主松平光通によって現在の墓塔が立てられた。
 館跡には当初朝倉氏の菩提寺心月寺が置かれた。朝倉氏滅亡後一時丹生郡に避難していたが、慶長四年館跡に再興された。ところが、慶長六年に北ノ庄に移り、館跡の寺と墓は心月 寺の末寺として義景の法名をとって「松雲院」として残されることとなった。
 発掘前の館跡地には中央に「松雲院」が、西北部に「足羽町一乗谷支所」が置かれていたが、発掘開始時にそれぞれ移転し、松雲院は心月寺と統合となった。

 


中御殿跡(なかごてんあと)

 朝倉館に南隣し、湯殿跡庭園から空堀を隔て、ほぼ同じ高さの台地にある。朝倉義景の母光徳院の屋敷跡と伝えられている。東側と南側は土塁に囲まれるが、昭和四七年(一九七二)以降の発掘調査によって南の土塁に門、また庭園跡と建物跡の一部が検出されたが、庭園の石などは持ち去られ、遺構としては充分でない。
 

 

TOPへ戻る

 

 

 

inserted by FC2 system