越前若狭歴史回廊

 朝倉街道を訪ねて その3

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東大味、一乗谷朝倉館

 榎峠を越えると、全面に田園地帯がひろがり、いよいよ福井平野の南端に出たという思いに かられます。このまま北上すれば足羽川ですが、初めに紹介した「越藩拾遺録」の末尾にあるように、東に路を折れると東大味町から鹿俣(かなまた)町へぬける街道があり、これが朝倉街道と一乗谷朝倉館を結ぶ大手道となっていました。
 この大手道にも朝倉氏の家臣の屋敷が置かれており、義景時代に朝倉氏に仕官した明智光秀の屋敷もここにありました。越前長崎の称念寺門前で貧困生活をしていた光秀夫妻は、仕官が叶い、この地に住居を構え、その跡が明智神社として保存されています。
 朝倉氏を滅ぼした天正元年八月の信長の越前侵攻や、越前一向一揆を壊滅させた天正三年の再侵攻の際、かつて世話になった住民を心配した光秀の気遣いで、この地は戦火を免れたといわれています。
 光秀の死後から今日まで、三軒の農家が「逆臣」といわれた光秀を、世間をはばかりながら祀り続けて今日至った話は、最近になって全国に知られるようになりました。

▼明智神社 ▼朝倉街道跡


 東大味から鹿俣町への道はゆるやかな山あいの道で、ちょっと狭い感じはしますが、舗装されており、現在は車で楽に峠越えできます。この付近には最近まで石畳の朝倉街道跡が残っていました。
 鹿俣町から朝倉氏遺跡までは直ぐです。一乗谷朝倉氏遺跡についてはここでは取り上げません。

東郷、足羽川

 さて、朝倉氏遺跡から元の道にもどり、東大味から東郷方面へ北上します。県道福井今立線を直進し、深見町田中の交叉点を右折します。しばらく進むと、東郷の町中へ入る手前の右側の斜面に、槙山城跡の案内板が目に飛びこんできます。朝倉氏時代に防衛上の枝城として築かれたもので、朝倉氏滅亡後の豊臣時代には長谷川秀一が城主を務めたこともあります。車で簡単に登れ、本丸下には駐車場もあるので、是非登って見て下さい。この小高い山は城山と呼ばれており、頂上からは東郷から足羽川岸までが遠望できます。中世には、街道を扼する拠点として重要視されていたと思われます。

▼槇山城跡碑 ▼東郷現況


 そんな感慨に浸りながら、東郷の町中へ。東郷の中心を通る道路には、真中を川が流れそれを囲む町並みも昔の宿場をほうふつとするものがあります。懐かしい感慨にひたりながら、川沿いの道をしばらく散策することに。川も以前よりなんとなくきれいになっているようです。
 東郷の町中の北が毘沙門町で、その北がすぐに足羽川となります。昔であれば、ここで渡河することになりますが、ちょうど橋が架かっています(毘沙門橋)のでこれを利用すれば、一気に対岸の成願寺町へ入ります。

成願寺・古戦場周辺

 足羽川を渡ると、国道158号にぶつかりますが、ここはそのまま横切って北上しますと、山にぶつかります。この山が成願寺山で、麓が成願寺町です。この山の中腹は中世越前で大きな勢力を占めた波着寺があったところです。永平寺を開山した道元禅師が身を寄せたり、朝倉氏がここへ参ったり、また軍事上の拠点でもあり、甲斐氏と朝倉氏が覇権を争った時や、加賀の一向一揆が越前に侵攻したときには戦場となりました。いまでも遺構が残っており、地元の人達により保存会が設置されています。

 さて、道は山裾でT字状になっていますので、左折、さらに酒生小学校の前の交叉点で、右折し北上します。
 右手には、吉野ケ岳から続く尾根の突端が突き出ておりここから小畑坂のある坂下町まで、整備された一直線の道となっています。
 しばらく進むとりっぱな建物の岡保公民館が見えてきます。よく見ると、駐車場の向こうに「岡保地区ふれあいマップ」という立派な看板が立っています。朝倉街道に関係した何かが書かれてないか探してみると、街道沿いに大畔縄手(おおぐろなわて)古戦場跡と書かれています。また、街道から少し離れていますが荒川沿いに殿下・桶田口古戦場跡とあります。
 さっそく地図を参考に古戦場跡を探すことにします。
 大畔縄手古戦場跡はさっき通った吉野ケ岳からの尾根の突端の下あたりです。少し戻って、岡西谷町方面へはいると直ぐ近くに、碑文を覆った小屋が見つかります。金網越しに中をみるといわくありげな石碑です。ついで荒川付近の殿下・桶田口古戦場跡もいってみましたが、こちらの方は、何も見つけることはできません。あたりに説明板もないため、この時点ではこのあたりが中世の合戦場であったのかという感慨のみでした。

 大畔縄手古戦場の供養碑は、戦死者をまつった供養塔のようです。岡保一帯は、朝倉氏と永く越前守護代を努めていた甲斐氏が、越前の支配をかけて激しく戦った激戦地で、文明六年(1474年)五月に殿下・桶田口の戦い翌閏五月には波着寺・岡保(大畔縄手)の戦いと、この辺りで激しい戦いがおこなわれ、両軍の戦死者で埋め尽くされるというような凄惨な状況となったようです。

▼大畔縄手古戦場跡碑 ▼西光寺跡

 「真盛上人往生記伝記」によると、延徳四年(1492年)岡保の西光寺で病に臥せっていた真盛上人にある人が訪ねてきて、何用か尋ねたところ、二十年ほど前にこの近くの大畔縄手で誅殺された亡魂で、上人に念仏回向してもらって修羅道からの苦しみから免がれたいと申し出たので、十念を授けたところ、たちまち消え失せたとのことです。
 真盛上人は天台真盛宗の宗祖で、朝倉氏との関係も非常に深く、戦国乱世に救世主として活躍された聖僧です。
 上人は後で人に尋ねたところ、以前この辺りで激しい合戦がおこなわれ、甲斐方の者が多く討たれたことを知り、大畔縄手に卒塔婆を立てて、西光寺で百万遍の回向をしたとのことです。
 いまは、平和で静かな里といった趣ですが、戦国の世の厳しさを垣間見たようで、厳粛な気持ちで供養塔の近くに今も残る西光寺跡にもお参りをすることにしましょう。
 西光寺は、天正三年柴田勝家が北ノ庄(福井)に築城した際、柴田家の菩提寺として北ノ庄に移転させられておりますが、現在でも、その跡には石仏などが残ってい ます。

小畑坂まで

 さて、気分を変えて、さらに北上しましょう。気持ちのいい直線道路を爽快に進むと、やがて、北陸自動車道と併走するようになり、やがて朝倉街道は二つのルートに別れます。
 一つは坂下町方面から松岡に入り、九頭竜川を渡河する道で、直線で進んできた道を右折して、細い道に入り小畑坂を越えて松岡に入ります。
 もう一つは、そのまま直進して中之郷に入り、九頭竜川を渡河するルートです。
 

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2000年1月号に掲載し<>越前若狭歴史回廊サイト「朝倉街道を行く (上・下)」<>として公開したものを加筆、改稿したものです。
無断転載はお断りします。

 

 

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