越前若狭歴史回廊

 朝倉街道を訪ねて その2

今回 の地域 (牧谷越え〜粟田部)の地図はこちらです
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萱谷町・牧谷越

 牧谷峠の北側に向かうため、一旦国道に戻り、武生方面から味真野に行ってみます。国道365号から国道8号と北上し、日野山の横腹を通過したあたり大屋口交叉点で、味真野方面へ右折、五分市郵便局の角を右折して南下、萱谷町 (かやだにちょう)を抜ける辺りから、旧街道らしい雰囲気になります。先ほどの下牧谷とはちがって通行止めはなく、鬱蒼とした山道をすすんでいくと、道が分かれている所にぶつかり、かつての街道の証とも言えるような大きな祠が 目に入ります。静かな山の中で「ああ、やはりここが朝倉街道の名残だな」という感慨に浸る事ができます。
 さて、道はこのまま牧谷越直前までは登って行けますが、尾根を越えることはできません。かつて、南条方面から五分市に抜ける主道として、 特に近世には五部市(ごぶいち)の「豪摂寺参り」に盛んに利用されたこの道も、いまでも林業の方が軽トラックで利用する程度です。このあたりで引き返して、 もう一度萱谷集落に戻りましょう。

 萱谷集落には、朝倉始末記に出てくる(杣山合戦のところ)積善寺のあるところでもあります。また、集落には用水が流れ、家並みもいい雰囲気を残しています。

 さて、萱谷から朝倉街道は池泉を通って五分市に向かいますが、街道の道筋は萱谷集落から北上して、少し解り難いですが文室川を渡り池泉まででます。その交差点にあるのが朝倉時代の越前守護鞍谷氏の菩提寺霊泉寺で、その東横には鞍谷氏の居館跡 といわれる鞍谷御所跡(現味真野神社)があります。
 鞍谷氏は管領斯波義廉の子孫で、朝倉氏が越前支配を正当化するために守護斯波氏(武衛家)に代わって、新守護に推戴されたものです。最初は一乗谷に居住したものの、後に池泉に館を移した と考えられています。
 朝倉街道の真横で、かつ府中に通じる一等地に館を構えるなど、守護家としての家格を感じさせます。

 おそらく、御所と霊泉寺、およびその背後の武衛山城が一体となって鞍谷氏の権威と防御の役割を果たしていたのでしょう。

 さて、味真野も古代から開けていた地方で、多くの史跡がありますが、今回はこれを無視して五分市から、北上して今立町に向かいましょう。現在の池泉・今立線が朝倉街道の 後継です。もちろん道路改良や耕地整理で、かつての七曲の道は近代化されています。とりあえず東側に流れている鞍谷川のところまで出ます。朝倉街道はこの川筋を北上し、粟田部に向かったと考えられているからです。
 

粟田部から榎峠まで

 鞍谷川沿いに北上しましょう。粟田部への道は今も利用されている道です。道はやがて粟田部集落に入ります。
 その突き当たりの行司ヶ岳(三里山)麓が、延喜式以来の由緒を誇る岡本神社です。その手前で右折して、鞍谷川沿いに三里山の裾を北上する道が、旧道と新道が併設されているものの、山裾の旧道は残って おり、朝倉街道の名残といえます。ただし、三里山を過ぎると昔ながらの川筋の道は無くなります。
 山沿いの道から平野部にでたところが落井集落です。このあたりは豊かな水田地帯で、耕地整理も行き届き、近代的な道となっており、かつての川沿いの道は消失していますから、 ここでは鯖江インター方面に行く現在の道をすすみながら、鯖江市橋立町で右折して文殊山の裾野を片上方面へ向かうこととします。

 徳光鯖江線と呼ばれる道路が文殊山・橋立山の麓を通っており、榎坂方面への道がひらけてきます。

 現在の榎坂は、トンネルが貫通し簡単に通りぬけることができますが、かつての街道は、片上神社の前の細い道から山越えすることになります。

 牧谷越えから距離を措かずに、またまた峠越えというのは、いかに昔の人が健脚であっても大変だったろうなという思いがします。
 現代の我々はそんな疑問を持ってしまいますが、しかし、朝倉氏にはもちろんそうしなければならない戦略的な意味があったのです。

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その3へ続く

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Copyright (c) 2000-2003 H.Okuyama. All rights reserved.
本稿は福井商工会議所報「Chamber」2000年1月号に掲載し<>越前若狭歴史回廊サイト「朝倉街道を行く (上・下)」<>として公開したものを加筆、改稿したものです。
無断転載はお断りします。

 

 

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