越前若狭歴史回廊

 朝倉街道を 訪ねて その1

今回とりあげている地域の地図はこちらです

 戦国越前を支配した朝倉氏は、南北朝の動乱時期、越前守護職であった足利尾張守高経(斯波高経)の被官人として、建武4年(1337年)越前に入国し、新田軍との戦闘に加わります。
 その名は、太平記の中で黒丸入道覚性として登場、南朝軍との足羽七城攻防戦において、守護職斯波高経を支える重臣として足跡を残しています。
 この黒丸入道こそが越前朝倉氏初代朝倉広景と言われています。

朝倉街道成立まで

 一般には、朝倉氏が一乗谷に入ったのは、戦国初代の朝倉孝景の時で、応仁・文明の乱で大活躍し、越前守護代となって一乗谷に拠点を移したとされています 。しかし実際には、一乗谷はそれ以前からもう朝倉氏の重要な拠点になっておりました。
 朝倉氏が甲斐氏に代わって越前守護代となったのは文明年間ですが、それよりも100年以上前の貞治年間に、一乗谷を含む足羽郡宇坂荘の地頭職を得、このころからこの地域に進出し、15世紀初頭にはすでに、一乗谷は朝倉氏の拠点になっており、案外はじめからここで成長したと考えたほうが正しいかもしれません。
 実は、室町の初期、朝倉氏は一時主人斯波氏に反旗を翻したことから、斯波氏が三管領筆頭として幕府に重きをなし、守護代に甲斐氏が就任し守護支配が貫徹する ようになると、一時閉塞状態に追い込まれ、一介の被官人にまで落とされたと推定されます。
 しかし、もともと上昇志向が強い一族で、それがもとで但馬の豪族から一族をあげて越前に入部し、斯波氏の被官になったわけで、自立心が強く冷遇された境遇にもめげず、ひたすら力の蓄えに励んだことと考えられます。

 このことが、朝倉街道成立の重要な要因となりました。斯波氏や守護代甲斐氏の拠点で北陸道が通る府中(現武生市)を避け、一乗谷に物資などの移動を可能とするルートの構築は欠かせないものだったのです。
 こうして朝倉街道は、斯波氏、甲斐氏の眼を逃れるようにしてつくられていったのです。そしてこのことが、後の、応仁・文明の乱で、名門の守護代甲斐氏と朝倉氏が覇権を争った時に、その絶大なる効果を発揮することになるのです。

朝倉街道の概要

 一乗谷は当時の北陸道から東へ大きく離れていたため、東側にほぼ北陸道に並行してつくられました。その道筋については、いくつかの説があり、一定していませんが、江戸時代に出版された「越藩拾遺録」に「東ハ丸岡ヨリ鳴鹿ヘ至リ、此川ヲ越ヘ松岡ヘ出、下吉野ヲ経テ小幡坂ヲ越ヘ、阿波カ原ヨリ成願寺渡村ニテ川ヲ越ヘ東郷ヘ出、榎木坂ヲ越ヘ粟田部・五箇ヘカカリ雄牧谷坂ヲ越ヘテ新河原ノ渡シヨリ鯖波ヘ出ヘ出ル。榎木坂之此方ニテ東ノ方鹿俣坂ヲ越ヘテ一乗ヘ出ル道、此頃ノ大手ナル由」とあります。

 つまり、丸岡(本来は豊原)から鳴鹿へ向かい、そこから九頭龍川を渡って、松岡町内に入り、小畑坂を越えて福井市坂下町へ。さらに、寮、河水町といった東部の水田地帯を南下して、福井市成願寺町から足羽川を渡って東郷へ出るとあります。東郷から榎坂を通って鯖江市東部から今立町粟田部・五箇へ至り、さらに南下して、武生市萱谷町から牧谷越で、南条町へ。日野川を渡って、鯖波付近で北陸道に合流したようです。無論、これ以外にも、諸説ありますが、もともと軍事利用を考え複数ルートで設定されていたようです。

始まりは、南条から

 早速、街道を辿ってみましょう。
 先ほどは北から南に向かってルートを説明しましたが、やはり出発地点は旧北陸道との分岐地点から出発したほうが理解がしやすく、ここでは南から北に向かって跡を辿 ります。
 先ずは、北陸道からの分岐点南条鯖波へ。
 さてどこかで北陸道から外れて、東に移動し、日野川を渡らなくてはいけません。一体どこで分岐して渡河したのか。それが問題です。
 個人的には鯖波よりもう少し北の、南条関ヶ鼻の集落あたりで渡河したのではないかと考えています。鯖波には昔から杣山に行くために、渡しのための渡河地点があったわけですが、杣山は戦略的な要地ですから、当然守護代甲斐氏の一族かまたは配下が守備しており、ふもとには重臣たちの居館もあったと推定されますから、この場所やこれより南で渡河したのでは、杣山城の真横を街道が通るかたちになり、あまり意味をなさないわけです。
 このように考えると鯖波の北にあたる関ヶ鼻の集落あたりが、やはり一番ぴったりきます。
 関ヶ鼻の集落は、JR南条駅前から旧北陸道沿いに南へ300m程下がったところにあります。旧北陸道はどれかといいますと、南条駅を出たすぐ前の細い道です。国道365号がすぐ近くを並行していますが道の雰囲気は全く違いますから、間違えようもありません。街道沿いには透明で清らかな小川が流れ、落ちついた集落のたたずまいとともに、なんとなく懐かしい気持ちにさせてくれます。などど感慨にふけりながら歩いていると、 芭蕉の「奥の細道」にも登場する鴬の関と書かれた大きな自然石の碑を見つけました。
 朝倉街道はここから日野川を渡って日野山の東側で牧谷越をし味真野に出たと考えられます。昔なら渡河ということになりますが、今は、立派な橋が架かっています(南条大橋)ので、これを利用して、下牧谷の集落へ向かいます。

下牧谷の集落

 下牧谷あたりも静かな山里然としたところで、山あいの風景を眺めながら集落沿いの道(朝倉街道?)を進みます。下牧谷の道も細くなってきていよいよ山の中へという手前のところで、車を降りて牧谷越方面を眺めながら「なんと牧谷越の高いことよ!ほんとにこんなところを朝倉の軍団が越えたのだろうか。」などと思わず感慨にふけってしまいます。 峠の標高は488mあります。
 脇を流れる川の名は何と「一乗谷川」、一乗谷から離れたこの地に「一乗谷」の名が残っていることこそ、まぎれもなくかつての朝倉街道であることを示しています。
 麓の道はまだまだ立派ですが、障害物で通行止めにしてあるため、反対側の味真野から回ってみることにします。
 

その2へ続く

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2000年1月号に掲載し<>越前若狭歴史回廊サイト「朝倉街道を行く (上・下)」<>として公開したものを一部改稿したものです。
無断転載はお断りします。

 

 

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