越前若狭歴史回廊

 

 

 
馬借街道(西街道)を歩く (下)

大坂峠から下中津原、湯谷へ

 一字一石塔を過ぎて今度は下中津原、湯谷地区へ向かって峠を下ることになる。この下り道は幅2mで両側に岩盤を刳り抜いた側溝が作られており、朝倉氏時代より、何度となく改修されながら残ってきた見応えのある古街道である。途中勾配が急な部分もあるが、歩くには十分な道幅で、静寂に満ちた時間を過ごすことができる。やがて平坦な道となり、視界も開け下中津原へ出る。ここまで広瀬の登り口から1時間半程度である。

▼しっかりした古道が残る ▼側溝

 下中津原から湯谷までは平坦な現代の道を通ることになる。一部山沿いに街道跡が残り、杉木立なども楽しめる。そこから湯谷の坂口公民館までは街道跡が一部耕地整理で消滅している。湯谷は、昔近くに温泉が湧出し「湯屋」と称したとされる。この公民館では街道の散策マップを作成し、街道歩きのイベントなども主催している。古道歩きに慣れていない人は、このイベントに参加すれば容易に西街道を楽しめる。

下中津原から湯谷付近の地図はここ

湯谷から中山峠へ

 湯谷を経て中山峠へと向かう道は、道筋に大きな変更はないものの、県道206号として近代的な道路となっており、昔の風情はない。それでも通りには旧問屋加藤家が残っており、その前には地蔵堂が置かれている。さらに進むと中山隧道が見えてくる。隧道の両端ともに、山に入る道に馬借街道入口の木標が建てられているが、これは隧道工事の際造成された道路で、元の中山峠に向かう街道は木標の反対側(北側)にあった。現在では廃れ、峠自体も林道工事などで様相を変えている。このため木標に従い造成された道路を進むとやがて矢良巣岳へ向かう林道(西部一号線)と交わるが、その周辺が中山峠で、注意してみると小さな標識が建てられており、この付近にも馬借街道が残っている。ただこの道は短く、すぐに再度林道と交わる。そのまじわった地点付近に大きな街道の解説板が設置されており、そこから海岸に向けて梨の木峠に向かう古街道となる。

▼旧問屋加藤家 ▼中山峠
▼中山峠付近小標識 ▼梨の木峠に向かう古街道

中山峠付近の地図はここ

梨の木峠、お題目岩

 中山峠から梨の木峠までは距離的に短く、また大坂峠の勾配を体験していると、峠という実感がわかず、うっかりと通り過ぎそうになる。幸いに首の破損しているものの峠の地蔵が置かれているため、ここが梨の木峠だと判明する。標高は260mである。ここからは海岸に向かって下り坂であるが、今泉川と街道が交差しながら蛇行して下りていく道で、ところどころに石畳なども見られるものの、大坂峠付近とは様相が変わり、一部では岩石の崩れたと部分やごつごつしたところ、川と道が混合したような道筋もある。滝のように岩石の上を流れる場所などは、眺めている分にはいいが、足元に少し気をつける必要がある。

▼梨の木峠地蔵 ▼巨石群

 梨の木峠から海岸までの中間地点あたりに、「弁慶の足跡」といわれる敷石があり標柱が建てられている。その先に「題目岩」と呼ばれる石がある。高さ3mの岩に今泉の常栖寺の日映上人の手で「南無妙法蓮華経」と刻まれている。昔この付近でウワバミ(大蛇)が出たためこれを封じるために書かれたとのことである。
 さらにその先に四つの石を組み合わせて立たせたたような巨石群が見られる。その足元には地蔵尊が2体祀られている。このあたりが難所にあたり、ここをすぎると勾配は緩やかになりやがて平坦に、そして舗装された道となる。左手に今泉集落の墓地があり、そこから少し進んだところが、口留番所跡である。標柱の他に解説板も建てられている。敷地はそれほど広くはない。川の左岸には風情のある野面積みの護岸が残されている。整備時期は不明だが、明治期以降のものであろう。ここから少し下ると西街道全体についての立派な解説板が設置されており、隣には地蔵堂が置かれている。もう日本海は目と鼻の先である。

今泉浦、河野浦

 地蔵堂を過ぎて集落に入るとすぐに海岸線に出、街道と海岸道路と交わる。今泉浦である。中山峠から降りてくるとここまで1時間半もみれば十分である。この交わる地点の右側が旧問屋の浜野家、そのさらに右隣が馬借関係の多くの文書を残す旧問屋西野家の場所である。福井藩の米蔵も西野家に隣接する場所(現河野郵便局)にあった。

▼海岸線への出口 ▼今泉浦現況


 海岸は地形からみてあまり港に適した場所には見えないが、この北隣集落が初期の西街道の起点であった甲楽城、南に繋がる集落が右近家に代表される北前船の船主の屋敷が並ぶ河野であることを考えると、荷物の積卸しに適した何かがあったのかも知れない。しかし、海岸線は現在では国道305号の整備で埋め立てられ、元の姿はなく、その面影を何も留めていない。
 ただこの海岸通りから一つ山側に入った河野の古道には北前船の船主、船頭、水主の館が家並みを形成しており必見のスポットである。「北前船の館」として右近家は著名だが、中村家、刀祢家など海岸側に長屋門と土蔵などを配した河野浦以外ではあまり見られない様式で、近隣の寺、神社と合わせてじっくり見て回りたい。西街道や「北前船の館」を見にきて、ここを見ないで帰ったのでは、兼好法師の「ある法師」の「石清水八幡宮」見学になってしまう感じだ。最も、見て回る人など誰もいないが。

▼「北前船の館」右近家 ▼河野の古道

 西街道はここで終わり、後は海上七里といわれる舟運で敦賀へ接続となる。

 余談となるが、河野と馬借街道にまつわる話では、織田軍(秀吉)の府中(武生)進攻も欠かせない。天正3年8月14日、越前一向一揆討伐のため信長軍は敦賀に入り、翌日早朝から北陸道・木ノ芽峠攻撃の大手軍と海から杉津、河野を攻撃する搦め手軍の2軍に分けて総攻撃を開始した。特に信長は海からの上陸作戦を重視し、大手軍が木ノ芽城を初めとする峠一帯の諸城を牽制している間に、明智光秀、柴田勝家が杉津砦へ、羽柴秀吉は河野新城攻撃を分担し河野へ。搦め手軍は、一揆軍は内部の裏切りもたちまちこれを制圧し、海岸線沿いを確保すると、秀吉らの織田軍は馬借街道などを通って府中に殺到した。この後「今府中の町は死骸ばかりで足の踏み場もない」といわれるほどの悲惨な状況となったのである。

今泉・河野付近の地図はここ

エピローグ

 明治7 (1874) 年6月、これまでの西街道に代わって府中(武生)と海岸を結ぶ新たな道路「春日野新道」が開通した。この新道は河野浦の北前船豪商であった右近家、中村家等が中心となったもので、馬借の旧習の残る西街道を避け、河野浦〜赤萩〜春日野峠を経て府中(武生)に隣接する北陸道沿いの南条郡四郎丸を結ぶ約13.5Kmのルートである。
 右近家等は河野〜敦賀間の海路を利用する敦賀河野運輸会社も設立して、陸海両面で物流の近代化はかり北前船に代わる新たな事業展開を目指したのである。
 しかし、舟運の利用は季節に影響されやすい難点があり、福井の経済人は、舟運を利用せず、陸路で敦賀まで繋ぐ新道建設を計画。明治18年これが認可され、明治20年、従来の木の芽峠超えに代わり府中(武生)から春日野、太良、元比田を経て杉津から海岸沿いに敦賀に結ぶ悲願の車道が竣工するのである。これが後に国道12号、さらに国道8号となり、嶺北の大動脈として発展するとともに、西街道は急速に歴史の中に埋没していくことになるのである。
 

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2009年1月号「西街道(馬借街道)を歩く」に補筆したものです。無断転載はお断りします。

*取材・撮影にあたっては福井商工会議所係長小谷孝一君の協力を得ています。

 

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