越前若狭歴史回廊

 

 

 
馬借街道(西街道)を歩く (上)

 「馬借街道」の名で最近注目をあびている府中(武生)と海岸を結ぶ古街道。もともとは西街道と呼称されていたが、最近では馬借街道の名が普及している。馬借とは、馬に荷を積んで運ぶ運送業者のことで、往時はこの馬借関係者で大いに賑わった。
  越前国内の街道としては南北に縦断する北陸道が知られているが、中世、近世においては軍事、物流道としてこの馬借街道もよく利用された。
 朝倉氏時代には、北陸道のほかに「朝倉街道」と「西街道」は物資や兵の移動に欠かせないものであった。
  特に、北陸道が敦賀と今庄間に木の芽峠越えという難所を抱えていたのに対して、西街道は比較的難所が少なく、海岸から敦賀まで舟運を利用して重量級の物資でも迅速に搬送できたからで、その利用価値は高かったのである。
 今回はこの古道を探訪してみる。

プロローグ

 『太平記』巻17と巻18は南北朝期の戦いとして、越前守護である足利(斯波)尾張守高経が、京から逃れ敦賀金ヶ崎に篭る新田義貞を討伐するため、越前をはじめとした北陸道の勢五千余騎を率いて拠点とする府中を出発し、海岸の蕪木(甲楽城)より敦賀に向かった事、また兵を引き上げる際にも、敦賀から蕪木(甲楽城)に上陸して府中に戻ったことを記している。
 北陸道で敦賀に向かう場合、途中の杣山は新田軍に味方する瓜生氏の本拠であったことも多少影響を与えたかもしれないが、一度に多くの軍勢や物資を動かすには、馬借街道を利用するのが通常であった。
 その後、馬借街道の海岸側の起点は蕪木(甲楽城)から今泉(河野)に移るが、これは室町中期以降に今泉浦を起点にした経路が開拓されたためである。

▼今泉浦 ▼府中(柳町付近旧北陸道)

 一方、府中(武生)側の起点は旧北陸道に近い養徳寺・真照寺近辺の本町、柳町付近と考えられ、ここから広瀬〜大坂峠〜下中津原〜湯谷〜中山峠〜梨の木峠〜今泉(河野)のルートをたどった。

蕪木(甲楽城)、今泉(河野)付近の地図はここ
府中(武生)の本町、柳町付近の地図はここ


府中の起点から出発 柳町から茶臼山・馬塚へ

 はじめに府中(武生、現越前市)側の起点近辺の養徳寺に寄ってみる。墓地の入口には「渡邊洪基墓所」の案内が出ている。東大の初代総長を務めた渡邊洪基の菩提寺である。墓域の奥、回り込んだ場所に渡邊家の墓があり、その横に分骨された洪基の墓石が建立されて いる。工学院大学による洪基の事績紹介板も設置されており、これを目印にすれば容易に見つけられる。寺の横手の入口にも工学院大学により案内板が設置されている。洪基は工学院大学の前身となる工手学校の創設者でもり、日本の工業技術者養成に貢献した。 
 養徳寺を後にして、いよいよ街道探訪に出発である。

▼渡邊家の墓 ▼旧北陸道から西進

  府中(武生)の柳町の旧北陸道に面した地区は、キリン刃物や小泉仁太夫商店など打刃物問屋をはじめ古い商家が軒を連ねている。このキリン刃物から西へ伸びる細い道を出発点として、馬借街道は海岸までの15Kmの道程となる。
 現在の県道19号(武生〜米ノ)より南側で19号に並行している細い道である。特に旧北陸道から入る部分は車1台分の道幅しかなく狭いが、少し進むと、小型車ならすれ違いも可能な道幅となり、ややカーブしながら西進する道となる。途中には地蔵も在り、どことなく街道の雰囲気を残している。
 府中での西街道の起点については諸説があるが、個人的にはここが一番相応しいと思っている。但し、これは近世でのことで、朝倉氏時代にはもう少し北側にあった可能性が高い。

 歩みを進めるとまもなく高瀬地区に入り、県道19号に合流し、旧国道8号と交わる高瀬交差点に出るが、この交差点の少し北側に古墳が全域に広がる茶臼山に向かう道があり、これが馬借街道の跡と考えられる。
  茶臼山は古代の古墳遺跡だけでなく、中世の城跡もあり、近くには千福氏の拠点もあり、甲斐氏と朝倉氏の府中争奪戦に果たした役割を想像しながら歩くのも悪くはない。
  街道はこの茶臼山にぶつかり、茶臼山沿いに回り込むようにして続いていたと考えられるが、旧道は一旦ここで途絶えるので、県道19号に出なければならない。
 出た所が馬塚地区である。その名は終焉を迎えた馬を葬る塚に由来するもので、馬借街道沿いならではの名前である。馬塚にも地蔵堂があるが、位置は道路整備などで移動している。

茶臼山付近の地図はここ



広瀬周辺

 馬塚から県道19号をさらに西進すると広瀬地区に入る。街道の宿駅として栄えたところで交通の要所であった。集落は通りの南側に細長く連なっている。もともと吉野瀬川に沿って東西に発展した集落である。江戸期には福井藩の米蔵も置かれており、その跡付近に隣接して神山小学校が設置されている。

▼神山小学校 ▼馬場家の長屋門

 そこから少し西に進むと、かつての宿駅問屋であった馬場家の長屋門が見える。通りの北側で、通りから少し入った場所に建っているため、反対方向から車で移動する場合は見つけやすいが、東から西に進む順路では見過ごす場合もあるので注意が必要である。
 さらに進むと石塔や地蔵堂が置かれた追分の三叉路に着く。府中の柳町からここまで直線で4Km、道なりに測定すれば4.5Kmぐらいである。
 馬借街道を訪ねる人はここを起点にして河野海岸の今泉まで歩くケースが多い。ここからは県道19号から別れて、進路を南にとり、吉野瀬川の支流沿いに廃村となった当ヶ峰地区を通り、大坂峠へ向かう山道に入っていくことになる。
 ただ、三叉路から山道入口までは現在大型重機で道路拡張改修工事が行われており、車で入口まで進入できないので注意が必要である。

広瀬、追分周辺の地図はここ



大坂峠へ向かう

 山道の入り口は大きな馬借街道の開設板が設置されており迷うことはない。道幅も十分である。少しすすむと「馬の水飲み場」があり、案内板が設置され、地蔵も置かれている。

▼大坂峠に向かう山道入口 ▼馬の水飲み場跡

  海岸へ下っていく道は、後述するが今泉川と交差しながらの道筋で、何処でも馬に水をやることができるが、この付近では川筋から離れているため、このような場所が必要であったのであろう。 ここではちょっとした休憩もできる。ただ、現在では水量はあまり多くない。
  道は少しずつ勾配を増していき、このあと荷崩れなどを防止するため「馬の荷直し場」と言われる横道が設置された場所が見えてくる。この案内板は2箇所設置されている。さらに進むと、つづら折の山道の勾配はいままでよりきつく、道幅も狭くなる。

▼馬の荷直し場 ▼つづら折の山道


  峠の少し手間には、この街道で一番見晴らしのいい場所で、武生市街が一望できる地点がある。ここではしばし辛さを忘れることができる。

▼途中の見晴らし ▼峠と地蔵


  峠直前の切り通しはかなりの勾配となり、登るにしろ降りるにしろ、馬も相当難儀したのではないかと思われる。登りきったところが大坂峠で、この街道の最高位(280m)に位置している。峠では地蔵が出迎えてくれる。

▼一字一石塔 ▼複線区間

 峠からはしばらく平坦な道のりとなり、しばらく進むと一字一石塔の置かれた少し広い場所に到達する。この塔は、安政5年に中津原の少林寺の道雲和尚により建立されたもので、「法華千部読誦一字一石三拝大乗護国経王塔」と刻まれている。少林寺は中世には朝倉氏と関係の深かった寺院である。
  塔の付近は複線道路となっており、山道とは思えないほどの幅がある。この複線は、馬のすれ違いのためとも道路改修で新・旧の道が並行して残ったものともいわれているが、定かではない。

大坂峠付近の地図はここ

(下)に続く

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2009年1月号「西街道(馬借街道)を歩く」に補筆したものです。無断転載はお断りします。

*取材・撮影にあたっては福井商工会議所係長小谷孝一君の協力を得ています。

 

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