越前若狭歴史回廊

 

 

 
浅井氏小谷城址、朝倉氏大嶽城址を訪ね

 永禄13年(元亀元年)4月20日、京を発った織田軍団は朝倉氏攻撃のため敦賀に攻め入りますが、妹婿の浅井氏に背後を衝かれ、京に敗走を余儀なくされます。リベンジを狙った6月「姉川の戦い」で、織田・徳川連合は朝倉氏・浅井氏連合軍と死闘を演じますが、決着はつかず、以後4年間にわたって近江を中心に抗争が続きます。
 戦国史の中でも名高いこの両陣営の抗争(「元亀争乱」と呼ばれる)の舞台となった北近江浅井氏の居城である小谷城とその頂上にある朝倉氏の大嶽城を探訪してみましょう。

浅井氏の出自

 浅井氏の出自については、江戸時代初期に書かれたものが複数あるものの、史料としての信憑性に乏しいといわれている。
 鎌倉時代に入り、佐々木京極氏の支配が浅井郡に影響してくる頃に、浅井郡丁野村上村付近を本拠地とする在地土豪として、江北地域の武士たちとともに、京極氏の被官になったと考えられる。
 「江北記」によれば京極氏の「根本当方被官之事」として、浅井氏を含め12名被官人があげられており、この頃の浅井氏には特に名を残す人物は輩出していないが、浅井郡内における在地領主として次第に成長していった。
 そして、応仁の乱後、守護大名の力が次第に衰える中、文亀年間(1501〜1504)の京極家の内紛(お家騒動)にからみ、浅井亮政が頭角を現し、ついには主家京極氏に替わって江北に号令するまでにいたる。
 亮政の死後、後を継いだのが子の久政。信長の妹「お市の方」の夫である長政は久政の子にあたり、亮政−久政−長政を浅井三代と呼称している。
 朝倉氏との関係は、亮政の時代から始まる古いもので、亮政が北近江へ勢力拡大を図る中、近江守護で南近江を支配する名族佐々木六角氏と対立、このため亮政は、越前の朝倉氏に支援を求め、そのもとに六角氏の攻勢を防ぎ、北近江の支配を固めたのである。
 
浅井氏居城小谷城

 小谷城は、その浅井三代の居城で、中世五大山城の一つとしても有名な城である。
 五大山城とは、同じ近江にある六角氏の観音寺城、越後の上杉氏の春日山城、能登の畠山氏七尾城、出雲の尼子氏の月山冨田城をさしている。
 小谷城の築城時期ははっきりしないが、大永4年(1525年)に浅井亮政が主家京極氏を小谷城内の京極丸に迎えて饗応したとされており、この前後に築城されたと考えられている。その後久政、長政と浅井氏三代に渡り拡張整備されていった。
 城址は、湖北町と浅井町にまたがる小谷山上にあり、ここからは湖北地域が一望でき、北国脇往還や中山道の要衝にあり、琵琶湖にも近く、まさに重要な地に立地している。
 また、中腹から山上にかけて地形を巧みに利用した土塁・曲輪等の跡、中世には珍しい石垣の遺構が今なお残されており、当時の面影を偲ぶことができる。
 浅井氏を支援した越前朝倉氏とも関係が深く、中腹には越前の猛将朝倉宗滴が築いた金吾丸、また織田信長と対峙した朝倉義景も小谷城の山頂(大嶽)に城を構えており、これも遺構が残っている。

小谷城のアクセス、登山開始

 高速道路(北陸道)を敦賀から米原に向かって走ると、一番低い郭である出丸跡付近に設置されている「小谷城址」の大きな看板が目に入ってくる。これを横目で見ながら通り過ぎ、長浜インターで降り、国道365号を北上して小谷山に到着。インターからは10分程度の距離である。
 ただJRでのアクセスはあまり良くなく、車を使用する方が現実的。麓に10台程度の駐車スペースがある他、中腹にも数台程度の駐車スペースがあり、ここまでは車で乗り入れできる。
 季節がよければハイキングを兼ねて麓から徒歩で登るのも悪くないが、ここでは中腹まで車で入り、そこから小谷城址を探訪してみる。車を停めた中腹が丁度金吾丸にあたる。
 戦国朝倉氏の初代となる孝景の末子で猛将として知られた朝倉宗滴が、大永5年(1525)浅井氏を支援するために築いた陣所の跡とされている。
 これと反対側に番所跡があり、そこから城の中枢部を目指し登っていくことになる。登山道はよく整備されており、高齢者や子供でもそんなに苦になることはない。遺構は番所跡か ら茶屋跡、馬屋跡と続き、馬屋跡付近には、石垣で囲われた方形の馬洗池といわれるものがある。

▼番所跡 ▼馬洗い池


浅井長政自刃の地と本丸

 さらに進むと、右に入る赤尾屋敷の標識が立っている。位置的には、本丸の南東下部にあたる場所で重臣赤尾氏の屋敷があったところである。
 元亀3年、信長軍の攻勢の前に敗北を悟った浅井長政は本丸を出て、この屋敷に入って自刃する。その場所には浅井長政自刃の地の碑が建立されている。

 元の登山道に戻って先に進んだところが桜馬場と黒金御門の跡になる。
 桜馬場には浅井氏の供養塔も建てられている。
 黒金御門の先が千畳敷ともいわれる城内最大の郭「大広間」で、主殿の跡とされており、ここでは多数遺物も発掘されている。この大広間の奥に一段高く築かれた本丸址がある。その本丸の背後には深さで約10m、幅約15mにおよぶ巨大な堀切が残っており、見応えがある。但し、これを堀切と見るかどうかはちょっと意見が分かれるところであろう。

▼大広間(主殿の跡) ▼本丸址


 堀切をとおり、中の丸を経て段郭を登ってくると、東側に土塁がある大きい郭にでる。これが京極丸である。大永4年(1504)に亮政が主君京極氏を迎えた所とされている。

▼京極丸址 ▼土塁址


 次の郭が小丸で、長政の父である主久政の隠居所があった場所である。信長方の秀吉によって隣の京極丸が落とされ、長政の居る本丸との連絡を絶たれた後、ここで自刃した。

▼小丸址 ▼山王丸/野面積みの石垣

  小丸の奥が巨石による野面積みの石垣で有名な山王丸である。小谷城の守護神、山王権現の祀ってあったところで、この崩れた石垣は小谷城でも一番人気のスポットとなっている。



朝倉氏ゆかりの大嶽城と朝倉軍の敗退

 朝倉氏ゆかりの大嶽城はここからさらに急峻な道を進み、小谷山の頂上(495m)に位置している。 中高年にはかなりきつい登りとなる。しかも時期が悪く、草で周辺の地形を判別することはできなかったのは残念。

 天正元年(1573)8月12日、朝倉氏の援軍が守備していた大嶽城は、麓(焼尾)で浅井軍が守っていた砦の守将が投降したのを契機に、雨の中、織田信長自身が数百人で守る大獄を電撃的に攻撃、これを落とし、さらに大獄城と小谷城の真下にあり、平泉寺玉泉坊が守備する朝倉方の城も降伏に追い込む。
 これで朝倉軍と小谷城は完全に分断された状態となり、木ノ本に布陣する朝倉軍本隊は浮き足だち、翌13日、態勢を立て直す間もなく一斉に敦賀に向って退却しはじめる。
 勢いで勝る織田軍はこの時を待っており、息をつかせず追撃に乗り出し、越前と近江の国境にあたる刀禰坂で退却する朝倉軍に追いつき、凄惨な掃討戦がここから敦賀の疋田まで繰り広げられ、一夜にして朝倉軍は壊滅に追い込まれてしまう。

 刀禰坂の戦いで、将兵のほとんどを失ってしまった朝倉義景はわずかの近習に守られて、府中(現武生市)を経て一乗谷へと敗走し、帰陣したのは8月15日であった。
 主君を迎えたのは僅かの側近達で、もはや最後とばかりに愛児愛王丸とともに自刃して果てることを決意するが、大野郡司朝倉景鏡のすすめで、再起をはかるため僅かの供回りの侍とともに大野に逃れるものの、景鏡の裏切りにあい、結局大野にて自刃して果てる。四十一歳の生涯であった。
 一方、義景が去った一乗谷は、信長軍によって火が放たれ、神社仏閣、居館から町屋に到るまで、朝倉五代の都として繁栄を誇った一乗谷は三日三晩燃え盛り、灰燼に帰した。
 この結果、朝倉館の向背の一乗山城は、一度も戦闘に使われることなく放置され、廃城となった。
 

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写真撮影 2005.6

本稿は福井商工会議所報「Chamber」2005年7月号「浅井氏小谷城址、朝倉氏一乗城山を訪ねて」の前半部分に補筆したものです。
無断転載はお断りします。


 

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