越前若狭歴史回廊

 

 

清水寺 ( 「法華三昧堂」に今も「朝倉堂」の名が残る)

 清水寺の縁起は諸説があり、はっきりしないが、開創は千二百余年前の奈良時代末の奈良子島寺の延鎮(えんちん)上人で、「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との夢告をうけ、音羽の滝を尋ねあて草庵をむすんだのが、発端とされている。
 その後、延暦十七年に坂上田村麻呂が、この地で延鎮上人に会い、深く観音に帰依し、仏殿(本堂)を建立し、御本尊十一面千手観音を安置したのが起源とされる。
 宗派は、北法相宗総本山。単立の一寺一宗である。
 征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの寺院ということもあり、戦国大名の信仰も厚く、越前朝倉氏との関係も深い。

 応仁の乱が起こった応仁元年七月十日、近江から京に迫った西軍六角高頼の軍勢を制するため、東軍(細川派)は東山近在の寺社に火を放った。このため清水寺は、建仁寺などとともに焼失する運命となる。
 乱後清水寺は再興に向けて動き出したが、その内容は「清水寺再興奉加帳」として残っている。

 奉加帳トップに登場するのは、もちろん「上様」日野富子。
 但し、金額では越前衆には及ばない。富を一身に集めながら百二十貫どまりである。吝嗇家らしいともいえるが、もちろん富子からすれば、幕府のみならず内裏をはじめ都全部が彼女の肩にのしかかっているのであり、清水寺だけにかかわるわけにはいかないので、当然といえる。
 
 越前は朝倉氏やその被官人で三十人以上となり国別でトップである。越前国人の熱い支持を集めていたことが伺える。
 
 また永正七年には越前の朝倉貞景によって法華三昧堂が寄進され、現在も「朝倉堂」の名前で呼ばれている。

▼朝倉堂正面 ▼朝倉堂全景

 かつては本堂同様の舞台造りであったが、江戸寛永期に火災に遭い、その後再建されたものである。正面五間、側面三間、本瓦葺き、入母屋造りで重要文化財となっている。正面には「補陀殿」の扁額が掲げられ、本堂同様に千手観音ら三尊を祀る。

 なお清水寺は、西国三十三所観音霊場第十六番札所、落陽三十三所観音第十二番札所で、一九九四年には世界遺産に登録された。
 
 

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