越前若狭歴史回廊

 勃発応仁の乱(京 ・朝倉氏ゆかりの地を訪ねて)


 応仁元年正月、将軍義政が突然管領畠山政長を解任、さらに畠山の家督を政長から義就に与えた。
 管領家筆頭の斯波氏が義敏と義廉の家督争いを演じているなかで、またしても将軍義政の無定見が繰り返されたのである。背景には義就に加担する山名宗全の策略があったと言われている。
 管領には、山名宗全の推す斯波義廉が就任した。

 ここに至って
 足利義視(将軍義政弟)、斯波義敏、畠山政長、細川勝元(後の東軍)
 足利義尚(日野冨子)、斯波義廉、畠山義就、山名宗全(後の西軍)
 の二大勢力の対立は一気に緊張した。
 斯波義廉の被官人であった朝倉氏は、当然山名派の重要な戦力であった。

 管領を罷免され畠山邸の引渡しを求められた政長は、1月17日自邸を焼き払うと、そのまま上御霊社に兵を進め陣取った。この上御霊社は、花の御所(室町第)に近接し、相国寺の北に位置し、細川勝元邸にも近く、暗に勝元の支援と決起を促したものであった。
 世にいう「応仁文明の大乱」の火蓋が切って落とされたのである。

 花の御所は、現同志社大学の西側に位置し、烏丸通りから室町通りまでがその敷地であったが、現在は遺構は何もなく、今出川室町に石碑と花の御所の庭石と思われるものが一部発見されているのみである。

かつては広大な敷地とうっそうとした森に囲まれていたという上御霊社 応仁元年一月一七日、畠山政長は二千余の軍勢でここに立篭り、戦いの口火をきった

室町第址碑、当時は今出川〜上立売、烏丸〜室町がその敷地であった

応仁の乱当時の将軍 であった足利義政の墓は、相国寺にある

 将軍義政から他家の合力が禁止されていたこともあり、一月十八日早朝からの上御霊社への攻撃は、最初は義就単独で行われたが、政長軍も必死に防戦に務めたため、斯波義廉被官人の朝倉孝景が攻撃に加担し、ようやく勝敗が決し、政長は火を放ち逃亡した。孝景はこの時、上御霊社の北側から猛攻を加えたといわれる。

 上御霊社の合戦後、その後しばらくは特に大きな動きもなく推移し、すっかり山名方が油断しているなか、細川勝元は着々と諸国から軍勢を集め、反撃の準備をすすめていた。五月に入ると細川派(東軍)の諸将が山名方の大名の分国に押し入り、越前では斯波義敏が攻めこみ西軍派の動きを牽制にでた。

 そして五月二四日、細川方(東軍)は一気に花の御所(室町第)を押さえるとともに山名方(西軍)の一色義直邸を襲撃し、大手筋を確保し、二六日遂に本格的な乱へと拡大した。

 この時、山名方の斯波義廉は、将軍に次ぐ家格を有し現管領でもあり西軍の名目上の主将として被官人甲斐氏、朝倉氏、織田氏を従え一万を越える軍勢で参戦、一条大宮の細川勝久邸を攻撃している。ここでも朝倉孝景は大奮戦している。
 

西軍の有力大名、山名宗全の屋敷跡碑 朝倉孝景は斯波義廉に従い細川勝久邸を攻撃した(一条大宮付近)

東軍の激しい攻撃にさらされた武衛陣の跡に建つ平安女学院

室町通り沿いに「此付近斯波武衛陣」の石碑が建つ

 六月に入ると東軍は、西軍の主将である管領斯波義廉の屋敷(武衛陣)へ二度三度と集中攻撃を仕掛けるが、これも朝倉孝景の奮闘で守り抜いている。

 この頃の斯波義廉は、後に朝倉氏が自分を裏切り東軍に寝返るなどとは、微塵も思わなかったに違いない。

 しかし、朝倉氏の自立の野望は、応仁の乱の戦闘の渦中で暴れまわる中、次第に大きくなっていったのである。
 

 

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