越前若狭歴史回廊

  将監城址(大野市勝原)
別名:勝原城 斯波氏重臣二宮氏が最後に篭った城

 大野市勝原の九頭竜川曲流部付近に将監城址がある。斯波氏の重臣であった二宮氏が朝倉氏に対抗して最後に立て籠もった城で勝原城ともいわれる。

 室町期「第一の家格」といわれ、三管領筆頭として越前、尾張、遠江の3カ国守護であった斯波氏の家督争いは、将軍後継も巻き込み「応仁の乱」へ発展。越前でも東軍、西軍の支持勢力が激しく対立したが、斯波氏の重臣である二宮氏は、同じ斯波氏重臣である甲斐氏や朝倉氏とともに西軍に属した。しかし、将軍足利義政が東軍支持を鮮明にすると、朝倉氏は西軍から東軍に寝返り越前支配をかけて、これまで同じ西軍に属した甲斐氏や二宮氏と刃を交えることになる。

 この戦いは激しいものとなるものの、朝倉氏が守護斯波氏を推戴したことにより、越前で強固な基盤を持っていた守護代の甲斐氏を国外へ追いやることに成功し、二宮氏へも圧力を強める。

 文明7年、朝倉氏はついに越前国内で支配力が及んでいなかった二宮氏支配の大野郡への攻撃に取りかかる。二宮氏(二宮将監)は犬山城、亥山城(土橋城)や将監城に籠城し、激しく抵抗したが、2月には犬山城が夜討ちに合い苦戦を強いられる。

 ところが、ここで誰も予想しなかった事が起きる。ここまで大野の佐開に在って、朝倉氏の越前平定を見ていた守護斯波義敏は、朝倉氏の「越前乗っ取り」を懸念しはじめ、反朝倉の態度を固め 、4月20日二宮氏が篭る亥山城に突然入城する。

 一気に攻め落とすことを考えていた朝倉氏は、守護斯波義敏が城内にいることで攻撃不能の状態に陥ったのである。
 朝倉孝景は、守護義敏に繰り返し退城を求めるるとともに、将軍にも義敏の退城周旋を頼むが、結局義敏が受け入れることはなかった。
 このため、朝倉氏は城中の敵勢を城外に誘い出す作戦をたて、7月23日に井野部で合戦。二宮党は敗北を喫し、150人が討取られている。しかし亥山城に篭った義敏は、その後も城を退城 しなかったため、二宮党は将監城に立て籠もる一族とともに、その後も朝倉氏に対峙した。

 ここにいたって朝倉氏も決意し、11月3日ついに亥山城総攻撃を開始し、必死に抵抗する二宮氏と激しい戦いとなった。さすがに身の危険を感じた守護義敏は12月3日城外 の朝倉氏のもとに避難した。
 守護義敏が退城したことで、さすがの二宮氏も命運が尽き、その年の暮れで抗争は一応終止符がうたれた。その後は朝倉支配体制の既成化がすすむ。
 将監城にこもった二宮氏の抵抗も、ほぼその頃には尽きたものと考えられる。

 将監城跡へは、春先には勝原駅から西勝原集落を通り、山裾のキャンプ場から登ることができる。
 九頭竜川に面した部分は絶壁で、要害である。主郭付近は若干の段丘がみられ、周辺に僅かであるが石積の痕跡らしきものが見られる。出丸と見られる南側には二宮将監の墓と伝承される墓塔が残っている。
 
▼主郭跡に残る石積跡 ▼九頭竜川の絶壁に守られた主郭


 二宮氏の当主である二宮将監は、井野部郷の戦いで戦死したとも、最後は将監城に籠もったものの追い詰められ、将監城山裾の九頭竜川みくまの淵で自害したとも伝えられる。地元ではこの地を将監腹とよび、腹切石の伝承も残るが、ダム建設などで水流が削がれ、今では堆積した砂利に埋もれつつある。
 

▼みくまの淵(将監腹) ▼二宮将監墓 塔


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本稿は、本館「越前若狭歴史回廊・新越前若狭城跡考」の「将監城址」を再掲したものです。一部写真は変更しております。

 

 


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