越前若狭歴史回廊

     
   

安居城跡(福井市金屋町)
中世越前をめぐる戦いの地、斯波氏、朝倉氏(安居殿)ゆかりの地

南北朝時代、「足羽七城」の戦いとして世に知られる戦闘の舞台の一つ「安居城」跡は、福井市西部の金屋東部の山麓にある。
 敦賀金ヶ崎の戦いで敗れた新田義貞(南軍)は、一旦南条の杣山に逃れた後、態勢を立て直し、府中(武生)を拠点とする越前守護斯波高経(北軍)と対峙し、これを破る。守護高経は府中を没落し、足羽の黒丸城を中心とした足羽七城に籠城を余儀なくされる。
 しかし、高経が防御のために築いた足羽七城の連環城砦群は巧妙で、「七城」と呼ばれるものの、実際には十数個の城砦から成り立ち、一つ一つの城砦もさることながら、それらが相互に近隣に在り、一つの城を攻撃すると、他の城から出撃した兵が背後を襲う仕組みで、全体で攻撃、防御に備える造りとなっていた。
 安居城はこの北朝方の足羽七城の一 つで、守護斯波高経の臣細川出羽守が築いたとされる。日野川と足羽両川の合流点である漆ヶ淵を望み、守護高経が籠もる黒丸城の押さえには欠かせない城であったと思われる。要害の地であるとともに当時から交通の要衝でもあった。
 城跡はこれまで遺構調査がなされたことは無いが、出丸跡と推定される与須奈神社と、その後背の主郭跡から構成されており、両者の間は切り落とされている。その後安土桃山時代まで、何度となく改修されたと考えられ、どこまでが何時の遺構かを明確にすることは困難である。
 主郭まではそれほどの高さではないが、出丸跡も含め福井平野を一望でき、見晴らしの良さは抜群で、当時も北軍南軍の兵の配置が手に取るようにわかったのではないかと思われる。 
 現在、地元の人たちによって案内看板などが立てられており、麓の金屋町の墓地や下市集落の横手から簡単に登ることができる。

 戦国時代には、初代朝倉孝景の弟経景が支配し、その子孫景隆、景健が居城とし、安居殿と呼ばれていた。景健は元亀元年(1570)の織田信長と朝倉・浅井連合軍が激突する「姉川の戦い」で朝倉方大将を努めた武将で、後に湖西、京へも兵を進めている。景健は朝倉氏滅亡後は信長に降ったが、その後の一向一揆への対応を問われ信長から自刃を強いられた。

 朝倉氏滅亡後の天正3年には豊臣秀吉の臣戸田武蔵守勝成が1万石を与えられて居城としたが、関ケ原の合戦では西軍に属したため廃城となった。
 

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(初出 「福井商工会議所報」2006年4月号)
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本掲載内容は「越前若狭歴史回廊(本館)」新越前若狭城跡考の「安居城」を再掲したものです。

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