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越前若狭歴史回廊 |
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朝倉宗滴屋敷跡(福井市東郷福田、安波賀) 戦国初代英林孝景を父に持つ朝倉宗滴は、はじめ小太郎と名乗り、元服して教景、のち出家して宗滴沙弥を名乗る。 父孝景は、応仁の乱に乗じて、越前守護代を名門甲斐氏(斯波氏執事)から奪い、戦国大名として転身を遂げる基礎を確立した。 宗滴はこの英林孝景の末子にあたり、母は安芸(若狭)武田氏被官温科氏女(逸見氏養女、桂室永昌)である。 「武者は犬とも言え、畜生ともいえ、勝つことが本にて候」と言い切り、敦賀郡司であるとともに、三代貞景、四代孝景、五代義景 の軍奉行として、常に戦場の第一線にあって戦い続けた。 その宗滴の屋敷は敦賀の屋敷を除くと、一乗谷周辺に二ヶ所あったと考えられる。 その一つが、幼少の頃から敦賀郡司になるまで居住したとされる屋敷で、一乗谷から東に少し離れた東郷福田にある福田可竹屋敷である。ちょうど母桂室永昌の菩提寺にあたる永昌寺の北側にあたる。地図参照
永昌寺は、東松山と称し曹洞宗の禅寺で、開山は静岡徳願寺の三世越渓麟易。地元では朝倉孝景の創建との伝承もあるが、実際には桂室永昌が実子以千宗勝を殺害された後、これを弔うために創建したと考えられる。宗勝が朝倉家を継ぐことが予定されていたとの説もあり、この謀殺には謎も多いが、女丈夫で知られる桂室永昌の怒りは相当なものであった。彼女は、もう一人の実子教景とともに一乗谷を離れたのは、そういった危険から逃れることを意図したのかも知れない。 現在、屋敷跡を示すものは何もないが、地元では古くから宗滴屋敷の伝承があり、字名として「下館」が残っている。永昌寺の北側で、近くには白山神社が建立されている場所である。
宗滴屋敷のもう一つは一乗谷の入り口安波賀地区にあったとされる。宗滴は別に金吾を名乗ったが、現在も金吾谷の名で呼ばれているところがそれである。
こちらも屋敷跡を感じさせるものは何も残っていないが、下城戸の外側にあり、一乗谷最大規模の寺院であった光照寺と一体となって、北部からの一向一揆に備えるには絶好の立地とみることができる。 戦いに明け暮れた宗滴は、晩年、金吾利口書(朝倉宗滴話記)を残した。義景と朝倉氏の将来を案じながら、弘治元年(1555)八月十五日病となり、九月八日一乗谷にて病没し、戦いに明け暮れた生涯は、七九才で幕を閉じた。 法名月光院殿照葉宗滴大居士
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