越前若狭歴史回廊

  安居・弘祥寺跡(福井市金屋町 朝倉氏開創の名刹)

 弘祥寺は、越前朝倉氏の祖広景の子高景が、南北朝期の康永元年、別源円旨を開山として開いたもので、「安居の弘祥寺」と呼ばれていた

 正式には「大治山弘祥護国寺」と号し、後に臨済宗妙心寺末となり、本尊は釈迦如来であった。
 別源は越前出身といわれ、臨済禅中の唯一の曹洞系であった宏智派に属した。宏智派は朝倉氏の保護を受け、とくに当寺を中心に越前で栄え、朝倉氏の滅亡とともに衰微していった。

 別源は五山派の南禅寺に迎えられたが、後に京都建仁寺へも入寺し、朝倉氏と建仁寺との関係の端緒をも開くことになる。
 朝倉氏の支援はその後も続き、高景の子氏景は応永8年に大仏殿を、その孫にあたる教景(孝景の祖父)は嘉吉2年に仏殿を再興している。

 しかし、弘祥寺が応永19年11月に十刹に列し官寺化すると、朝倉氏の氏寺としての役割は薄れていったと考えられ、朝倉氏はあらたに安居に大孝寺を開いている。朝倉氏の越前支配権確立とともに、宏智派は繁栄したが、朝倉氏の滅亡後、一向一揆が吹き荒れると弘祥寺をはじめ朝倉氏ゆかりの大寺は灰燼に帰した。その後、寺跡には村民が薬師堂を建てて祀り、安産の霊仏として信仰されたという。

 江戸期に入ると、福井藩の四代藩主松平光通ゆかりの長光院の帰依を得て再建され、光通菩提寺でもある田谷の大安寺に兼帯させ、臨済宗妙心寺末になったが、再び衰微し、明治以後大安寺に併合された。

▼寺跡の段丘は田畑となっている ▼墓跡が残っている

 寺跡は、福井市金屋町の日野川左岸の小高い山麓にあり、現在はほとんど田地となっているが、石仏や墓が今も残っている。
 近くには南北朝時代、北朝方の足羽七城の一つといわれる安居城がある。延元3年5月2日、新田義貞が五千余騎の兵を差向けた五ヶ所のうちの一つである。朝倉氏時代には、その一族孫三郎景健の居城となった 。
 何れも日野・足羽両川の合流点、漆ヶ淵を望み、要害の地であるとともに交通の要衝であった。

地図はこちら

 


TOPへ戻る
 

inserted by FC2 system