越前若狭歴史回廊

 

 

三里浜 ( 朝倉義景「犬追物」興行/大窪浜・橋屋浜)

地図はここです

 禄四年(1561)四月六日、朝倉義景は坂井郡棗庄大窪ノ浜(現福井市三里浜)において大規模な犬追物を興行した。

 犬追物とは、武士たちが武技の修練のため行なったもので、囲いをめぐらした馬場に犬を入れ放ち、馬上から射る競技で、鎌倉期から室町期にかけて行なわれていたものである。

 この時期、義景が犬追物を興行した背景には、弘治元年(1555)九月に長年にわたって朝倉氏の軍奉行を勤めた朝倉宗滴(教景)が没して、強力な補佐を失った義景がみずからの武威を国内に示すためであったとも言われている。

  月四日に一乗谷を出立した義景は、坂井郡本郷八幡にある朝倉氏ゆかりの龍興寺に一泊し、翌日に は海岸に出て糸崎寺に参詣してここに宿泊した。
 竜興寺は朝倉氏滅亡後の天正二年六月に一向一揆に放火され灰燼と帰し廃寺となったが、かつては「本郷の竜興寺」「八幡の竜興寺」として知られ、最盛期には七堂伽藍を誇った名刹であった。 (竜興寺はこちらを参照)
 また糸崎寺は無形文化財の「仏舞」で有名であるが、この寺も一向一揆で焼亡しその後再建されたものの、今はかつての大寺としての面影はみられない。
 義景はこの寺に太刀を奉納するとともに、この時

「西の海入日の色も紅に寄来る波や糸崎の浦」

と詠んでいる。

▼八幡の竜興寺跡 ▼糸崎寺(義景の宿所)

 重臣以下伴衆は海岸近辺の村々に宿をとったが、一乗谷奉行人を 勤め、今回の犬追物興行の責任者であった朝倉玄番助景連は近くの河尻道場を仮宿とした。
 犬追物が興行された大窪浜を含む「棗庄」は古くから朝倉氏の拠点のひとつで、朝倉玄番助景連の居館は「棗庄」深坂村にあり、近くの朝倉山に砦(朝倉山城)を築いており、興行全体を仕切るには最適の重臣であった。 

▼朝倉景連の陣所跡 ▼朝倉景連の居城跡(朝倉山城)

 翌六日、いよいよ犬追物が行われた。その供人の数は一万余人で見物の群衆はかぞえきれないほどであったと伝えられている。また馬場の広さは八町四方であった。

 行奉行の景連は、金細工腰刀の弓取三十人・金張り鍔の帯刀三十人を先頭として、自分は左折りの烏帽子・袴姿で、金覆輪鞍の黒馬に乗り、武将百余人を二列にならばせ、鑓三十挺・白柄の長刀などを持たせて都合五百余人で出仕したとされ、人々の目を引いたという。
 次に近臣の小林新助が烏帽子に浅黄の上衣と袴姿で、都合三百余人で続き、その後に朝倉景隆が五百余人で、朝倉景尚・景友がそれぞれ二、三百人を召し連れて続いた。
 その後に義景が、金銀をちりばめた弓取りや太刀持ち、馬廻り、小者二百余人を従え、侍・小姓・外様都合一千余騎で出御した。義景はまず馬場に設けられた仮屋に入り装束をつけた。仮屋の外には家紋の幕をはり、内には磨き付きの屏風を一対ついたてとして置いてあり、槍やなぎなたを持った中間や小者が人垣をつくっていたとされる。
 さらに前波左衛門五郎景当、同九郎兵衛吉継、福岡三郎右衛門吉清、堀平石衛門吉重、山崎七郎左衛門其外魚住、柁美、桜井、斎藤、窪田たちが二百騎、三百騎と続き、総勢一万余人という大演習になった。

 見役は義景自身で、喚次役(呼び出し)は神助六、日記は栂野三郎右衛門吉仍が 勤めた。この犬追物は、鎌倉幕府を開いた源頼朝が鎌倉の由井が浜で行った興行以上といわれるほど盛大なものであった。

 翌七日は雨天で、八日には再び犬を射、九日には船遊びをして十日に義景は一乗谷に帰館した。 

▼三里浜現況 ▼地元の案内板

 追物が興行された場所は、現在の福井市大窪町 から両橋屋町にかけての三里浜である。三里にわたる長大な砂丘地帯も、江戸時代には砂防林が植えられ、戦後は北部に福井臨工が整備されるなど現在その環境はかなり変化している 。それでも現地に立ってみると、日本海と砂丘のコントラストは、荒々しい越前海岸のイメージとは一味も二味も違った自然を味わえる場所である。

 大窪町と橋屋町の境を高須川が日本海に注いでいるが、丁度このあたりが、犬追物終了後、酒宴に使用した器などを廃棄した場所で、土器塚という字名が今も残っている。


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初出:福井商工会議所報「Chamber」2003年5月号(一部加筆しております)

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