越前若狭歴史回廊

 越前東郷 (朝倉氏庶流東郷氏ゆかりの地)


 福井市街から東に8k近く行った足羽川の南の地が、戦国から近世初期まで城下町であった東郷集落である。(地図
 東郷は鎌倉時代までは九条家の荘園であったが、建長二年に九条家から一条家に譲られ、以後足羽御厨(あすわみくりや)・丹生郡安居などとともに、足羽郡近辺の荘園を知行した一条家にとって、収入源の一つとなっていった地である。
 さて、朝倉氏は南北朝の抗争時、名族の越前守護斯波高経に従って一族をあげて但馬から越前に入部したが、南北朝の貞治年間に、越前の領地七ヶ所(宇坂・棗・東郷・坂南本郷・河南下郷・木部島・中野郷)の地頭職を得たとされる。この時以降これらの地に順次入り込んだと考えられる。東郷もその一つで、朝倉美作守正景(朝倉当主下野守貞景の弟)は、一条家領東郷の代官職を得て、ここに居住中し東郷城を築き、後に東郷氏を称したとされる (系図参照)。現在城山と呼ばれ、一二二mの丘陵に残る槇山城跡がそれである。 
 
▼城下町の風情がある東郷集落 ▼往時の東郷城大手口・三社神社登り口


 そして、応仁の乱が勃発すると、朝倉氏は、その混乱に乗じて越前きっての実力者の甲斐氏に代わり越前守護代に就任し、越前を事実上の支配下に置くことになる。
 文明十一年八月に前関白一条兼良は、応仁の乱以降朝倉氏に押領されたこの地の回復を企てて自ら越前に下向している。しかし、朝倉氏に歓待されたものの家領の回復には至らず、閏九月京に戻っている。

 はじめは砦に過ぎなかったこの城も、朝倉氏の本拠一乗谷の重要な防衛拠点のひとつとして、戦国朝倉氏時代に入り整備されていったと考えられる。
 「古今類聚越前国誌」によると、朝倉氏滅亡時には、義景に殉じた鳥井兵庫助景近が一時ここに居城したとされている。

 その東郷城(槇山城)もいまでは、登山用自動車道が整備され、簡単に車で頂上まで到達できるが、往時は東郷の三社神社横の登り口が大手にあたり、山の北東には朝倉時代の郭群が今でも残っている 。

現在残っている本丸、二の丸跡などは豊臣期に城主となった長谷川秀一の築城によるもので、詳細は「槇山城(東郷城)跡」〜新越前若狭城跡考〜を参照下さい
 

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