越前若狭歴史回廊

 南陽寺・観桜遊宴


 永禄十一年三月八日、光徳院(義景母)は、一乗谷亡命中の足利義秋(義昭)から当時の女性としては最高の位階となる従二位に任ぜられた。その御礼として義景は義秋を光徳院の屋敷へ招 き祝宴なども開催されたが、三月下旬には、南陽寺に義秋とその伴衆を招いて観桜遊宴が催された。
 この遊宴に参会した義秋の近臣は、仁木義政・大館治部大輔晴忠・同中務少輔信実・上野陸奥守信忠・同中務大輔清信・一色播磨守晴家・同式部大輔藤長・同四郎秋教・同三郎秋成・伊勢下総守貞隆・同宮千代・武田治郎少輔信賢・武田刑部大輔信実・三淵弥四郎秋家・杉原長盛・飯河信賢・安藤蔵人泰識らである。

義秋と近臣は和歌を詠み、最後に義景も一首よんでいる。

諸共に月も忘るな糸桜年の緒長き契と思はゝ(源義昭)
永日も覚す暮る夜を懸て飽ぬは花の糸桜かな(仁木義政)
夕月夜暫し休へ糸桜花は斜にむすほられつゝ(喝食明慶)
人伝は物かは懸る糸桜いと咲花に春の夜の月(一色藤長)
専女の手引の糸の桜花見る我さへに心乱れゝ(一色晴家)
花盛さらぬ草木も糸桜いとより懸て匂ふ春風(一色秋教)
桜花枝もたわわに糸はへて木の間洩来る春のよの月(伊勢貞隆)
夕月夜ほのめく庭のいと桜いとゝ色香も殊更にこそ(大館信実)
帰るさを何と夕への月の影いとゝ色添ふ花の木の下(大館晴忠)
打はへて風にかたよる糸桜こや佐保姫の華の衣か(武田信賢)
折を得て今日咲花は君のため今一入の色や添けん(上野信忠)
今そ知る柳の枝も梅か香も願ひ悔しき糸桜かな(杉原長盛)
夕風の薫れる袖の月懸て靡く桜の華の木の下(伊勢宮千代)
香はかりは結ひ留めよいと桜乱て花は散尽すとも(上野晴信)
君か代の時に相逢糸桜最も賢きけふの言の葉(朝倉義景)

 庭園跡にはこの時義秋、義景の二人が詠んだ歌が碑になっている。(左写真参照)
 遊宴ではこの他、容顔美麗といわれた伊勢宮千代の舞が演じられたほか、無双の太刀使いといわれた朝倉臣真柄十郎左衛門親子も召しだされたという。

 さて、南陽寺は朝倉氏の息女が代々入室する尼寺で、一乗谷の中央、朝倉館の北東15mの高台にあった。
 創建は、応永十二年(一四〇五)に死没した朝倉当主(氏景、戦国時代の氏景ではない)の妻女(天心清祐大姉)によるもので、応仁・文明の大乱以前からすでに一乗谷が朝倉氏の拠点であったことがわかる。
 文明十一年(一四七九)八月に一条兼良が越前の家領の返還を求めて一乗谷に下向した際の宿泊もこの南陽寺である。

 寺跡には、小規模ではあるが山裾に庭園跡が発掘されている。滝石組の手法や形式は諏訪館庭園に通じるものがあるとされているが、スケールは全く違う。

▼朝倉館の後背山麓から南陽寺に通じる路 ▼南陽寺跡

朝倉氏遺跡・庭園跡も参照してください

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