越前若狭歴史回廊

 安波賀河原・曲水の宴


 禄五年八月二一日、 朝倉義景は、一乗谷に下向した大覚寺義俊(だいかくじ・ぎしゅん)の饗応のために安波賀河原にて曲水の宴を催した。

 大覚寺義俊は近衛尚通(関白太政大臣)を父とし、一五一六年に得度、一五三九年に大僧正となった才人で、公卿や連歌師との交友が深いだけでなく、将軍家と近く幕府と大名の連絡役も果たしていた。

 「曲水の宴」は中国から伝わり、貴族文化最盛のころは、朝廷や公家の間で大流行したもので、参会者が清水の流れる曲がりくねった水路に沿って座り、上流から流される杯が自分の前を通り過ぎないうちに詩歌を詠じ、て杯を取り上げ酒を飲み、また、次へ杯を流してやる遊びである。

 大覚寺義俊が大喜びしたのはいうまでもない。

 このときの主な参加者は、義俊、義景のほかに、四辻大納言季遠・同息中将公遠・飛鳥井中納言雅教・同息少将雅敦・大勝大夫俊直、朝倉九郎左ヱ門景紀・玄蕃助景連・同中務景恒松林院応瑳・ト雲・周笠・周伊・月謬・澄蔵主宗澄・知玉・永能・覚阿・聖沢・経王寺日尚・豊将監親秋・半井禅佐・同左馬助明宗・同治部明名・大日三郎右ヱ門景秀・曾我兵部入道宗誉・前波九郎兵衛吉継・堀平右衛門吉重・栂三郎右ヱ門吉仍云々、となっている。
 飛鳥井中納言雅教・同息少将雅敦親子など公家はこの催しに合わせて一乗谷に来越したものと思われる。

 なお義景は

花流す昔を汲て山水の一葉を誘ふ秋の涼しさ

 と詠んでいる。

「希代の興遊、末世の美談」とまで評されるほど盛会であったという。

 その安波賀河原脇坂尾は、下手側からの一乗谷入り口にあり(地図参照)、景勝の地であった。資料にでてくる、脇坂尾の地とは一乗山城の登城口をさすと考えられ、現在の登山コースのうち安波賀コースの口で、今は山すその西側に口があるが、当時は北側で河原付近から登った可能性がある。

▼安波賀付近の河川敷

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