戦国五代(越前朝倉氏十一代)
天文二年(1533)9月24日〜天正元年(1573)8月20日 孝景嫡男。母は若狭武田氏女(光徳院)。
幼名は長夜叉丸、元服して孫次郎延景と称し、天文二十一年には将軍義輝の「義」の偏諱を受けて義景と改め、左衛門督に任ぜられた。
弱冠16歳で、当主になった義景。京文化を積極的に取り入れ文武ともに優れていたと言われる。
しかし、貞景・孝景・義景の三代を補佐し、朝倉氏の領国支配を支えてきた朝倉教景(宗滴)が病で没すると、領国支配にも翳り見えてくる。
それを跳ね返すように、永禄四年(1561)四月に三里浜(棗荘大窪浜)において、大規模な犬追物を興行。また翌五年八月には阿波賀河原において盛大な曲水の宴も催した。
永禄七年(1564)には加賀に兵を進めた。同八年将軍義輝が殺されると、弟覚慶(後の足利義昭)は義景を頼り、越前敦賀に、ついで一乗谷に迎え歓待し、
一乗谷朝倉館で元服させた。
また、「赤淵大明神縁起」を上程し、孝徳天皇を祖とする系図を創作した。
しかし、義昭上洛の後、織田信長と決裂(朝倉氏と織田氏はともに斯波氏の被官、後、守護代となり、それぞれ越前、尾張を押領)。近江・浅井長政と共に反信長の戦いを挑んが、
天正元年(1573)八月十四日「刀禰坂の戦い」で大敗。大野へ逃れるものの、一族・朝倉景鏡の裏切りにあい、二十日山田庄六坊賢松寺で自害
、戦国大名朝倉氏は歴史から姿を消した。
そして、一乗谷も、八月十八日信長勢によって
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