越前若狭歴史回廊

  戦国朝倉氏  歴代当主事蹟

 越前の戦国大名朝倉氏は、朝倉広景が越前守護足利(斯波)高経に従い越前に入部し、南朝軍と戦い、越前に定住した。代々守護斯波氏の重臣として、甲斐氏、織田氏につぐ宿老を努めた。この間、中野,松尾,阿波賀,三段崎,東郷,中島,鳥羽などの支族を分出、徐々に足羽郡一乗谷に拠点を移した。
 敏景(孝景、戦国初代)のとき、主家斯波氏の家督争い、および応仁の乱に乗じ、文明三年(1471年)守護代甲斐氏にとって代わり越前守護代に就任、一乗谷を拠点にして、越前一国の支配に乗り出す。この後孝景→氏景→貞景→孝景→義景と五代百年にわたって越前を実力支配 した。

 また、朝倉家に伝わったとされる《朝倉家之拾七ヶ条》は戦国家法として有名である。

初代
孝景
 
戦国初代(越前朝倉氏七代目)
正長元年(1428)4月19日〜文明十三年(1481)7月20日

父は朝倉教景、幼名は小太郎、元服して教景を名乗る。斯波氏の家督を一族の義敏が継承した時に偏諱をうけ敏景を名乗る。
甲斐氏、織田氏とともに斯波氏の宿老を努める。

 応仁の乱に先立ち、越前では守護斯波氏と守護代甲斐氏が対立、国内は一時激しい戦となる。これを「長禄合戦」というが、この合戦で朝倉孝景は守護代甲斐氏の側にたち、守護斯波義敏と対立、甲斐側を勝利に導く活躍をする。
 この合戦で守護義敏は将軍の怒りに触れ失脚し、家督が同族の義廉(渋川息)に代えらるが、朝倉氏は、新守護義廉のもとで徐々に守護代甲斐氏をしのぎ始める
 なお義敏の失脚で名を教景に戻したが、後にその名を大乗院に呪詛され孝景に改名している。

 応仁の乱では、守護代甲斐氏とともに斯波義廉を推戴し、はじめ西軍に属し、京都で大活躍、「朝倉孝景」の名を天下に知らせしめた 。
 後、文明三年5月東軍(幕府側)の越前守護代就任の誘いで東軍に寝返り、守護代で西軍にあった甲斐氏と 激戦を展開。翌四年8月、甲斐氏の拠点府中守護所(現武生市)を落とし、文明七年大畔畷の戦い(現福井市)で優位を確保、文明八年の反朝倉の二宮氏が篭る大野郡の攻略で 、事実上越前支配を手中(押領) にするに至る。
 生涯を甲斐氏及びその残党との越前支配をかけた戦いに明け暮れ、朝倉一族繁栄の基礎を築いた。

 なお、従来、戦国初代孝景の時、越前守護代就任を機に、黒丸から一乗谷に拠点を移したとされてきたが、一乗谷は早くから朝倉氏の拠点であり、その祖父時代にはもう完全に一乗谷に移っていた。

 文明十三年、甲斐氏・二宮氏の反朝倉軍と対陣中に腫れ物を煩い、没。甘露寺親長は「天下に悪事の始まった張本人」と記し、その死を喜んだ。
 法名一乗寺殿英林宗雄居士。

 なお、戦国家法として有名な《朝倉家之拾七ヶ条》を孝景作とするのは、後世の朝倉氏の実情が書かれており、内容からみて少し無理がある。
二代
氏景
 
戦国二代(越前朝倉氏八代)
宝徳元年(1449)4月5日〜文明十八年(1486)7月4日

孝景嫡男で、母は一族の朝倉豊後守将景、幼名阿君、通称孫二郎

 応仁の乱では、父孝景の帰国後も京都にとどまり、西軍から東軍への寝返りの政治工作を行う。 文明三年父孝景の越前守護代就任を条件に「正式」に東軍に寝返ると、6月8日 西軍山名持豊邸で大酒を飲んだ後、東軍細川成之の陣に入り、東軍に加わった。翌9日、将軍足利義政に出仕し若狭経由で越前に下り、23日一乗谷に戻った。

 越前帰国後は父孝景とともに甲斐氏と激戦を展開、その後も執拗に反撃してくる甲斐氏と戦いながら、越前支配を確実なものにしていった。
 
 文明十一年、守護斯波義良が甲斐氏・二宮氏を引き連れ「朝倉退治」のために越前に下向すると、再び戦闘は激化し、一進一退の 状況となった。そのうような反朝倉軍と対陣中の文明十三年の夏、父孝景を失うという最大の危機に直面するが、叔父の慈視院光玖(大野郡司)、朝倉遠江守景冬(敦賀郡司)、朝倉下野守経景(安居城主)らの一族の強力な支援のもとで、これを撥ねかえし、 甲斐氏を加賀に没落させることに成功。

 文明十三年10月には、新守護に、斯波武衛家からではなく甥にあたる斯波義廉息の斯波義俊(後の鞍谷氏)を推戴し(もちろん武衛家、幕府とも非公認)、11月には幕府に代替わりの御礼を行なっている。
 義政の東山山荘の造営費用として2万匹献上するなど幕府に摺り寄り、越前の安定につとめるも、甲斐氏との抗争はその後も続いた。
 文明十五年に至って、「主人は斯波氏、越前守護代は朝倉氏、尾張守護代は織田氏、遠江守護代は甲斐氏」で和与がなったというものの、戦いはその後も続き、生涯戦いに明け暮れ没。

 治世僅か6年であった。法名小春宗孝大居士。

三代
貞景
 
戦国三代(越前朝倉氏九代)
文明五年(1473)2月5日〜永正九年(1512)3月25日

 氏景嫡男。母は織田孫左衛門尉女。室は美濃国守護代斎藤利国女。父の没に伴い、慈視院光玖が後見のもと、わずか13歳で朝倉家を継いだ。
 彼もまた反朝倉陣営(前守護代甲斐氏残党)との戦いに明け暮れる生涯で、家督相続直後には、将軍足利義尚の近江出陣に端を発した守護家斯波氏との越前宗主権 (朝倉氏の越前押領)をめぐる訴訟(長享の相論)に直面、さらに延徳年間にも主家斯波氏との訴訟(延徳の相論)が起き、この時の訴訟では、将軍足利義材から朝倉追討令が出されるなど、一時は危機に追い込まれるものの、これを乗り切った。
 文亀三年(1503)には、一族の内紛ともいうべき敦賀郡司朝倉景豊の謀反が起きるが、教景(後の宗滴)の注進で景豊の居城敦賀城を急襲してこれを鎮圧した。

 また、美濃斎藤氏と政略結婚で結びついた朝倉氏は、義父(妻実家)斎藤利国が配下の小守護代石丸利光と対立し、利国から離反し、明応四年には舟田合戦が起きると、貞景は斎藤氏の要請に応じて出兵し、翌五年の合戦でついに石丸父子を自殺させて舟田合戦 を終結に導いた。
 足利義澄を室町幕府将軍に擁立した細川政元のクーデター(明応の政変)では、2,000人の兵を上洛させ、京の都に「越前朝倉」のと名を轟かせた。

 さらに、当時破竹の勢いだった加賀一向一揆を押さえ、越前支配をより確固たるものにしていった。特に永正三年の一向一揆(九頭竜川大会戦) は、30万の大軍で甲斐氏残党とともに押し寄せた一揆と九頭竜川を挟んで対戦、勝利し、名実ともに越前の支配者となった。
 永正元年弾正少忠兼左衛門少尉に任じられる。
 永正九年三月鷹狩の途中急死した。法名長陽院殿天沢宗清大居士。

四代
孝景
 
戦国四代(越前朝倉氏十代)
明応二年(1493)11月22日〜天文十七年(1548)3月22日

 貞景嫡男。母は斎藤利国女。室は若狭武田氏女(光徳院)。「天下に名を馳せた、初代にあやかりたい」と初代と同じ孝景を名乗った。
 この時代の朝倉氏は、越前支配の安定と国力強化のもとで、幕府の命を受け、また、近隣諸国の要請により、乱を静めるため若狭・美濃・京都などへ相次いで出兵した。

 母の実家である美濃では、このころ守護土岐氏と守護代斎藤氏の内紛が舟田合戦以来続き、敗北した斎藤利良が土岐政頼を擁して永正十五年に越前へ亡命。孝景は兵を美濃に入れ利良・政頼を帰国させるなど、その後も美濃を支援。
 若狭武田氏や近江北部の浅井氏の支援も朝倉氏の勢力拡張につなげるため積極的に派兵した
 大永七年には、近江に逃れていた将軍義晴の京奪還に向け朝倉教景(宗滴)を総大将に一万の軍勢を派遣し、三好勢や柳本勢と京の桂川付近で激突し 、少なくない犠牲を払いながら、戦功をあげている。

 また 30数年間に渡って越前国主の地位を守ると同時に、京都から一乗谷に公家、文化人を迎え、華やかな文化を開花させた。 主な下向者に清原宣賢・枝賢、大覚寺義俊、飛鳥井雅綱、臨済僧宗牧、神道家吉田兼右らがいる。
 永正十三年には将軍足利義稙より白傘袋ならびに毛氈鞍覆を免ぜられ、大永八年には将軍義晴の御供衆に加えられ、天文四年塗輿御免となり、同七年には相伴衆に列し、破格の待遇を得、名門守護大名に準じた。
 天文十七年三月二十二日、波着寺参詣の帰途、急死。
 法名性安寺殿大岫宗淳大居士。

五代
義景
 
戦国五代(越前朝倉氏十一代)
天文二年(1533)9月24日〜天正元年(1573)8月20日

 孝景嫡男。母は若狭武田氏女(光徳院)。
 幼名は長夜叉丸、元服して孫次郎延景と称し、天文二十一年には将軍義輝の「義」の偏諱を受けて義景と改め、左衛門督に任ぜられた。
 弱冠16歳で、当主になった義景。京文化を積極的に取り入れ文武ともに優れていたと言われる。
 しかし、貞景・孝景・義景の三代を補佐し、朝倉氏の領国支配を支えてきた朝倉教景(宗滴)が病で没すると、領国支配にも翳り見えてくる。
 それを跳ね返すように、永禄四年(1561)四月に三里浜(棗荘大窪浜)において、大規模な犬追物を興行。また翌五年八月には阿波賀河原において盛大な曲水の宴も催した。

 永禄七年(1564)には加賀に兵を進めた。同八年将軍義輝が殺されると、弟覚慶(後の足利義昭)は義景を頼り、越前敦賀に、ついで一乗谷に迎え歓待し、 一乗谷朝倉館で元服させた。
  また、「赤淵大明神縁起」を上程し、孝徳天皇を祖とする系図を創作した。

 しかし、義昭上洛の後、織田信長と決裂(朝倉氏と織田氏はともに斯波氏の被官、後、守護代となり、それぞれ越前、尾張を押領)。近江・浅井長政と共に反信長の戦いを挑んが、 天正元年(1573)八月十四日「刀禰坂の戦い」で大敗。大野へ逃れるものの、一族・朝倉景鏡の裏切りにあい、二十日山田庄六坊賢松寺で自害 、戦国大名朝倉氏は歴史から姿を消した。
 そして、一乗谷も、八月十八日信長勢によって inserted by FC2 system