越前若狭歴史回廊

朝倉孝景の兄弟

 戦国初代となる英林孝景の越前支配を援け、ともに推し進めた孝景の兄弟のうち、重要な役割を果たした三人をとりあげる。

視院光玖
初代孝景の弟。曹洞宗宏智派禅僧。府中代官の後、初代大野郡司を務める。明応三年一月没 。
能吏としての顔の他に、軍事面でも活躍した。

 長禄合戦で朝倉氏が台頭するなかで、孝景は一乗谷に長期在住は難しいため、光玖が京と一乗を行き来しながら在地支配を見ていた。
 また、朝倉氏の越前支配を賭けた戦いでは、文明十一年から守護斯波氏が甲斐氏・二宮氏を引き連れ反撃するなかで、一時朝倉氏は窮地にたつが、光玖が大野郡を死守したおかげでようやく反転攻勢に乗り出すことができた。
 兄孝景が志半ばで病没して危機にたたされたときも、嫡男氏景を補佐し、斯波氏、甲斐氏を加賀に没落させ、その後も光玖がこれを後見し、宿老的存在となった。
 明応二年、細川政元が将軍義材を廃して新たに義澄を立てた明応の政変では、朝倉氏は、細川方の上原勢に 合力し、光玖は被官杉若藤次ほかを上洛させて軍役を担い、その精兵ぶりが京での評判となった。
 孝景の子である教景(宗滴とは別)を養子としていたが、教景は景総に相撲に寄せられ殺害された。光玖や教景の生母の怒りは激しく、後に景総は越前から逃亡した。
 興福寺大乗院尋尊とは親しい仲であった。
 

倉景冬
通称修理進。官途は遠江守。敦賀郡司を努める。
京では剛勇で知られ、「朝倉の小天狗」と呼ばれた。明応四年九月没(宗弼)。

 兄孝景が志半ばで病没して、越前支配が危機にたたされたときも、光玖らとともに嫡男氏景を補佐し、孝景の死から二ヶ月で斯波氏、甲斐氏を加賀に没落させるなど活躍した。
 長享元年十月、将軍義尚による近江出陣・六角高頼討伐に応え、近江坂本に着陣。
 この時、斯波氏が「朝倉の越前押領」を訴えたため「長享の斯波氏との相論」となったが、その後、大御所義政への奉公として仙洞御所の松の東山山荘への移植を指揮した。
 延徳の訴訟では斯波氏の訴えに対して「朝倉退治」の将軍御教書まで出されるに至り、一層の窮地に追い込まれるなかで、在京して斯波氏との訴訟に備えた。
 敦賀郡司として敦賀兵三千で軍役を担った。
 文芸にも通じていたらしく、細川政元の北国下向に同行した令泉為広を敦賀で饗応し交流している。
 郡司職は子の景豊に継承されたが、文亀三年景豊は謀反を起し滅亡した。
 

倉経景
通称与三右衛門尉。 官途は下野守。安居城主(安居殿)を努める。
延徳三年一月没(禅勇)。

 兄孝景が志半ばで病没して、越前支配が危機にたたされたときも、光玖らとともに嫡男氏景を補佐し、孝景の死から二ヶ月で斯波氏、甲斐氏を加賀に没落させるなど活躍した。
 氏景時代には、当主に次いでの光玖と同格の地位にあったとされる。
 しかし、経景に関する資料は殆どなく、事績は充分にわかっていない。
 貞景時代には歌人の越前下向も多く、一乗谷に文芸が広まったが、経景もこれらに参加している記録が残っている程度である。
 それでも代々安居城主(安居殿)を継承し、最後の景健の代で信長の侵攻、一向一揆で滅亡した。

 

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