越前若狭歴史回廊

朝倉景健

あさくらかげたけ
朝倉景健 ?〜1575年(?〜天正3年) 

 安居城主景隆の子で通称孫三郎。

 戦国初代となる朝倉孝景は8人兄弟といわれているが、以下の3人の弟は特に有名である。
 文武に活躍した慈視院光玖は大野郡司になり、末弟の景冬は敦賀郡司に、次弟の経景は日野川と足羽川の合流点で軍事や物流の要所である安居城主となった。
 安居城主経景の系統は、宗家との姻戚関係を維持しながら、経景の子景職(かげもと)、その子の景隆、さらにその子で最後の城主となる景健へと継がれることになる。

 元亀元年(1570年)四月二十日、織田信長は朝倉攻めのため坂本を出陣、越前敦賀郡に侵攻し、朝倉方も防衛のため一乗谷を出陣、景健も千五百で出陣したが、信長は朝倉景恒の守る天筒山城を陥し、さらに金ヶ崎城を開城に追い込んだ。しかし、浅井氏の離反で信長は退路を絶たれる危機に追い込まれ、越前から脱出した。

 報復のため信長は六月九日二万の軍勢を出陣させ浅井氏攻撃に乗り出し、二八日朝倉・浅井軍と姉川を挟んで激突した。
 両軍合わせて九千人以上の死者が出たともいわれる大激戦で、朝倉軍の大将を景健が努めた。戦いは織田・徳川の優勢ではあったもの、織田軍も犠牲が多く小谷城に攻め込む余力はなく、決着しないまま、両軍とも兵を引いた。

 しかし、八月に入ると近江は反信長の動きが活発となり朝倉氏も義景自身が総大将となり景健や浅井氏を従え湖西に進出、九月には先鋒の景健は信長軍を破り織田信治や森可成を戦 死に追い込み、朝倉氏は逢坂峠を越え京に進出、最大の危機にたった信長は朝倉義景に和睦を申し入れるも義景は拒否、このため将軍義昭に働きかけ和睦に持ち込み危機を脱した。

 元亀三年の近江出兵にも景健は義景に従って従軍している。

 天正元年(1573年)義景が近江に出陣し、信長に刀禰坂で大敗した時も景健は従軍し、奮戦。義景の脱出を助け自身も敦賀に退いた後、安居城に戻った。しかし、義景が大野で自刃した後は信長に降伏し、姓も安居(あご)と改めて本領を安堵された.
 が、翌二年越前の一向一揆が蜂起するとこれに与したため、天正三年信長が越前に再進攻し一向一揆を平定すると、景健は赦免を信長に願い出るも許されず、自害 を強いられた。

 

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