越前若狭歴史回廊

朝倉景連

あさくらかげつら
朝倉景連
?〜1566年(?〜永禄九年)

 朝倉景連は、棗郷の朝倉山を拠点とする朝倉氏庶流「玄蕃助」家の出で、義景時代の天文十九年(1550年)頃からは一乗谷の奉行人を勤めている。しかし、永禄九年(1566年)ころには記録から消え、永禄十年の足利義秋の一乗谷動座関係の資料には一切でてこないことから、このころには没したものと推定される。

 日下部氏朝倉系図は戦国二代となる朝倉氏景の子、つまり貞景の弟に朝倉玄蕃助景宗を記し、その子を景連としている。さらに景連の子として三郎景胤、七郎景泰まで記しているが事実関係は不明である。
 *本サイトでは、とりあえず、日下部系図に従って「景宗−景連」としている
  
 (系図はここです

 但し、最近の福井県や福井市の自治体史の朝倉氏系図は、一切朝倉景連を掲載していない。
 要は、実在は確かめられるものの、その系統がはっきりしないということであり、棗郷に居館を構え土着していることからも、「玄蕃助」家を戦国初代英林孝景以前の早い時期の朝倉氏庶流と する見方もある。

 しかし、朝倉始末記にも重要な場面で登場することや、その扱いからいっても義景からそれほど遠い関係とは思われず、もともと孝景以前の朝倉氏庶流であっても、軍奉行で敦賀郡司だった朝倉教景(宗滴)が宗家との関係を維持するため実子を廃嫡してまで宗家貞景の子(景紀)を養子に迎えたように、玄蕃助家でも宗家から氏景の子を養子を迎えたことも可能性としては否定できないのではなかろうか。

 弘治元年(1555年)7月21日、朝倉教景(宗滴)は一乗谷から最後の出陣となる加賀一向一揆討伐に出立し、23日に加賀に入った。朝倉始末記によると玄蕃助景連も従軍し、一隊の大将として津葉城を攻め陥し、さらに菅生口に陣を 敷いて一揆と対陣している。

 また、永禄四年(1561年)4月6日、三里浜(大窪浜〜橋屋浜)で朝倉義景が一万余の人数を集めて犬追物を興行した時、景連は興行奉行を努め、弓取には金細工の腰刀、自身は左折の烏帽子にかちんの上衣、袴姿、左右に武将百余人を二列に並ばせ、白柄の長刀、銀金具の槍30本と合わせて五百余人という大勢で義景の下に参上し、人々を驚かせたという。

 永禄五年7月、義景が大覚寺儀俊を迎えて、一乗谷の脇坂尾(阿波賀原)で曲水の宴を張った時も玄蕃助景連は参加し、

秋山を夜深けに出て鹿そ鳴麓の原に妻や籠れる

と詠んでいる。

 以上のことからも宗家と近い関係を見て取ることができ、日下部氏朝倉系図は誤伝が多いとはいえ、景連関係は全く無視できないのではなかろうか。


参考
朝倉義景「犬追物」興行
 

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