越前若狭歴史回廊

 朝倉氏 概略


 前の戦国大名朝倉氏は、はじめ日下部氏を名乗り、平安末期には但馬国養父郡朝倉に住し、朝倉氏を称した。 『越州軍記』は景行天皇を祖としているが、これは朝倉孝景の弟・慈視院光玖の発案により創設されたものである。『朝倉始末記』は孝徳天皇皇子・表米親王を祖としているが、これは最後の当主義景が「赤淵大明神縁起」 を上程し、系図を新たに創設したことに由来する。いづれも創作の域をでない。

 北朝時代 、朝倉広景は越前守護となる足利(斯波)高経に従い越前に入部するが、 広景は足利高経の母親である里方長井氏配下の土豪で、朝倉庄の代官を努めていた。その関係で高経の被官人になったと考えられる。同じような里方出身の被官人としては八木氏がいる。

 武四年、高経にしたがって越前へ入った広景は、新田義貞など南朝軍と敦賀金ヶ崎の戦い、府中の戦い、足羽七城の戦いに従軍 し、戦功をあげ、守護高経の越前支配に伴い、八木氏らとともに里方出身の斯波氏被官人として、黒丸 城(館)と後に地頭職を得る宇坂荘(一乗谷)を拠点に越前に定住した。

 かし、高経の足利尾張家(斯波氏)は足利一門でも最高の家格を誇っており、「将軍と同格」を称していたため、しばし ば幕府への反旗と帰順を繰り返すこととな った。このため朝倉氏は、一時、斯波氏から離れたこともある。

 前入部後の朝倉氏は広景の時代の康永元年(1342)に足羽郡安居(現福井市)に朝倉氏の氏寺である弘祥寺を創建している。その子の高景は、延文二年十二月(1357年)、足羽郡預所職を宛がわれている。
 「貞治の政変」で高経が没落した際には、斯波氏から離れ追討に加わり、越前の領地七ヶ所(宇坂・棗・東郷・坂南本郷・河南下郷・木部島・中野郷)の地頭職となったとされる 。

 丸城の地は、現在は福井市に編入されているが、九頭竜川と日野川とに挟まれた所に位置し、九頭竜川水運を利用できる要地に立地していた が、やがて、貞治年間に地頭職を得た頃から、朝倉氏は一乗谷に入り込み、徐々に一乗谷に拠点を移していったと考えれれる。そして、戦国初代の敏景(孝景) の祖父や父の時代にはもう完全に一乗谷本拠を移していたと考えられる。(戦国時代に入って一乗谷に拠点を移したとするのは俗説で根拠がない)

 ころで、朝倉氏が、一時斯波氏から離脱したため、斯波氏が復権し権力が固まると、その後は斯波氏の支配機構に組み入れられ一被官人の立場に置かれ、家勢が停滞した。
 その後、徐々に力を蓄え、守護斯波氏の重臣として、甲斐氏、織田氏につぐ宿老を代々努めた。また、足利持氏の乱(永享の乱)、結城合戦においても、関東まで出陣し活躍した。この間、中野 、松尾、阿波賀、三段崎、東郷、中島、鳥羽などの支族を分出、確実に力を蓄えていった。

 の朝倉氏が飛躍する契機となったのが、敏景(孝景、戦国初代)のときの「長禄合戦」である。庶流から斯波氏の家督をついだ義敏と斯波氏の重臣達 である守護代甲斐氏、織田氏、朝倉氏と争った一連の騒動である。この時、 敏景(孝景)は甲斐氏側に立ち、守護方を討ち、義敏の失脚に繋がる大きな戦果をあげた。
 しかも、この騒動の最後に、越前きっての実力者守護代甲斐常治が病没し、甲斐氏の重圧から解放されるきっかけを掴んだのである。

 の後、主家斯波氏の家督争い、および応仁の乱に乗じ、文明三年(1471年)守護代甲斐氏にとって代わり越前守護代に就任、一乗谷を拠点にして 、甲斐氏と覇権を争いながら越前一国の支配に乗り出す。この後 、非公認ではあるが、新守護に斯波武衛家に代わり斯波義廉息の斯波義俊(後の鞍谷氏)を推戴し、孝景→氏景→貞景→孝景→義景と五代百年にわたって越前を実力支配 した。

 

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