越前若狭歴史回廊

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50 Re:宗滴屋敷、Re:二極化 管理人 - 2003/02/20 20:09 -
通りすがりさん、通りすぎず、お立ち止まり頂き有難うございます。
さて敦賀郡司宗滴の屋敷ですが、若い頃は東郷に居住していたものの考えられます。敦賀郡司、軍奉行になってからは下城戸の外の西山光照寺近くに屋敷を構えたと考えれます。一向一揆から一乗谷を護る気概がそうさせたのかも知れません。(いづれ取り上げます)
府中人さん、毎度ご心配頂き有難うございます。
当人はそれほど深く考えておらず、マイペースで行きたいと思います。

49 ちょと教えて下さい 通りすがり - 2003/02/18 23:58 -
通りすがりです。
朝倉宗滴に関心があります。
敦賀郡司でしたが、一乗谷には屋敷が無かったのでしょうか
大野郡司の景鏡については一乗谷の屋敷の解説があります。
宗滴屋敷は無かったのでしょうか

48 2極化? 府中人 - 2003/02/17 23:41 -
ご無沙汰です。
確かこのサイト観光振興が目的だったのでは?
研究論文一覧みてますと、所期の目的はふっとんだ感じですね。
もっとも、PhotoChinama など、何とか一般むけにしょうと
努力はしておられるみたいですが.....
個人的には両立してほしいと思いますが
わかりにくいでしょうね。
管理人さんも大変ですね。

47 Re:はじめまして(青学生さん) 管理人 - 2003/02/10 21:54 -
青学生さんはじめまして、ようこそ「戦国大名越前朝倉氏」へ
郷土福井の歴史にもご興味をお持ちとのことで、本年も月2〜3回の更新を心がけたいと思っておりますので、今後ともご贔屓にお願いします。

46 はじめまして 青学生 - 2003/02/06 23:48 -
福井市出身の青学生と申します。
正月に帰省しているときにこのサイトを見つけました。
すごいサイトでビックリです。
入試では日本史を選択し、郷土史にも関心があります。
でも県内のサイトでここまで紹介しているサイトは無いと思います。
これからもお邪魔したいと思います。
今後ともヨロシク。

45 Re:はじめまして(井上さんようこそ) 管理人 - 2003/01/26 09:40 -
井上さん始めまして、ようこそお越し頂きました。
武生ご出身とのことでこれからもよろしくお願いします。
三段崎(三反崎)氏は越前に入部した朝倉広景の子高景の末子(弼景)の子孫で、その屋敷は城戸の内からははずれますが、東新町、鹿俣、浄教寺にあったとされています。現在の福井県内には三反崎姓の方が何人か居られます。朝倉氏滅亡後も庶家はそのまま残ったものと思われます。
お時間ございましたら、昔の小丸城跡や鞍谷御所跡の風景と現在との比較などお聞かせいただければと思います。
今後ともよろしくお願いします。

44 はじめまして 井上 - 2003/01/25 13:46 -
はじめまして
歴史リンクをたどってたどり着きました。

簡単に自己紹介をすると、1954年3月武生 生まれ
高校まで武生でした。その後実家は鯖江へ
現在は千葉に住んでいます。

高校時代は郷土史研究会に所属していましたし、
小学校の担任の先生が鞍谷御所の近くだったのでことは知っていましたが斯波氏とははじめて知りました。
父の実家が小丸城址(というか野々宮廃寺)の近くにあるので一昨年タクシーに乗って野々宮廃寺の近くといって知らないといわれた時にはがっくりしました。

ところで、朝倉氏の一族である三反崎氏ですがその後三崎という苗字に変更したという話を(いつの時かはっきり覚えていません。30年以上前ですし)聞いた覚えがあります。
すばらしいサイトで感心しています。
時間が許す限り訪問させていただきます。

43 Re:府中人さん 管理人 - 2003/01/25 09:50 -
府中人さん、ご返事遅れました。
小次郎伝承の今立高善寺は別に周辺観光(ちょっと遠いですが)でとりあげさせて頂きます。朝倉街道の紹介で寄り道するのはいいアイデアですし、修行のために一乗谷に通った路はいわば街道のわき道みたいなものですが、街道そのもののテーマから少し外れる感じがします。
犬追物は近く掲載します。

42 約束が... 府中人 - 2003/01/23 18:00 -
観桜宴会の南陽寺はいいのですが、犬追物はどうなったんでしょうか

41 あのう・・・ 府中人 - 2003/01/17 00:00 -
府中人です。
一乗滝の小次郎伝説ですが、武生に近い今立町てにも生誕地伝承があります。
こちらの紹介もお願いしたいですが、朝倉遺跡から遠すぎますかね。
朝倉街道から寄り道する案はどうでしょう。

40 Re:私もリクエスト 管理人 - 2003/01/06 00:05 -
ともゆきさん、本年もよろしく。
朝倉氏五代の事績解説が簡単すぎるとのご指摘ですが、五代の事績は「朝倉氏の戦い」のなかで詳しく解説する予定をしています。
その関係で「歴代当主の事績」は簡潔になっています。
ご了解ください。
但し、「朝倉氏の戦い」の掲示が遅れるようでしたら補充します。
よろしくお願いします。

39 私もリクエスト ともゆき - 2003/01/03 22:13 -
昨年はお世話になりました。
私もリクエストがあります。
朝倉氏の一族の紹介はかなり詳しいのですが
肝心の孝景以降の五代の解説はそっけない感じがします。
もう少し詳細なものを希望します。

38 あけましておめでとうございます 管理人 - 2003/01/01 00:24 -
新年あけましておめでとうございます。
九月に開設して、多数の方々にアクセス、また掲示板でご発言頂き有難うございます。
新年はQ&Aだけでなく、皆様の自由な交流の場としてご利用頂ければと思います。
本年もよろしくお願い申しあげます。

37 Re:楽しみです 管理人 - 2002/12/30 13:14 -
当初の予定では義景の小旅行部分(糸崎寺や竜興寺)と合わせて紹介を予定していましたが、とりあえず、大窪浜での犬追物だけでも先行掲示することにします。
その分、寺関係は後回しになります
しばらくお待ち下さい

36 楽しみです 府中人 - 2002/12/25 23:53 -
管理人さん、早速のご返事有難うございます
>府中人さんなら察しがつくと思いますが、最低四〜五日快晴がつづかないと
>取材は無理で、北陸の冬でこれを満たすことは困難です。
山寺は天候の関係で難しいですよね
時期を待ちます

35 Re:犬追物 管理人 - 2002/12/25 08:17 -
府中人さん、お早うございます。
犬追物はとりあげる予定をしており、粗稿はできているのですが、これは義景の小旅行も兼ねており、関連する部分の取材が冬季では難しいのです。
府中人さんなら察しがつくと思いますが、最低四〜五日快晴がつづかないと取材は無理で、北陸の冬でこれを満たすことは困難です。
もうしばらくお待ち下さい。

34 リクエスト、犬追物 府中人 - 2002/12/24 23:55 -
こんばんは
先日は地図のお願い、素早い対応有難うございます。
もう一つお願いです。
「曲水の宴」は載っているのですが
「犬追物」が載っていません
チョット不公平?
よろしくお願いします

33 Re:はじめまして 管理人 - 2002/12/23 23:10 -
mariさんはじめまして
ようこそお越しいただきました。
二部の足羽家とは渋いですね。
松江藩主松平氏の本陣を営んだ足羽家の祖は、朝倉氏の家臣で、主家滅亡後越前を去り二部に移ったとされていますが、越前側ではもう少し情報がないと資料を調べることは難しいと思います。
むしろ二部側で足羽家祖先の事績をもう少し提供していただけませんか。足羽を名乗る前の姓とか古文書類が少し残っているのではないかと思いますがいかがでしょうか。

32 はじめまして。 mari - 2002/12/23 18:23 -
はじめまして。よろしければどなた朝倉氏と足羽家について
の関係を詳しく教えてください。
お願いします。

31 Re:地図もお願いします 管理人 - 2002/12/23 10:14 -
府中人さん、度々のお越し並びにご意見有難うございます。
早速地図を参照できるようにしました。
(特に更新情報には掲示していません)
主サイトの越前若狭歴史回廊よりも写真も増やしてあります。
3回ぐらいに分けて掲載予定です。
それだはまた。

30 地図もお願いします 府中人 - 2002/12/22 23:48 -
こんばんは
朝倉街道を訪ねてですが、写真は豊富になっているのですが
地図がないのはちょっと不親切な感じです。
横着言ってすみません
管理人さんよろしく

29 Re:もう少しやさしく Re:姉川の決戦 管理人 - 2002/12/13 21:26 -
府中人さん、ご指摘ごもっともです。もともとこのサイトは観光振興や地域振興を目的としたものでした。いつのまにやら「越前若狭歴史回廊」と同じスタンスに堕してしまいました。以後気をつけますね。
ともゆきさん、たびたびのご来訪有難うございます。ただ、別に反対意見を述べているいるわけではありません。
1)はインターネットコンテンツでも半々、2)は以前から一部の人からいわれていましたし、3)は朝倉氏に限ったことではなく、戦国以降の大名はみなそんな感じですね。
4)は遺跡資料館などの公式見解で主流の意見です。
さて、本題の姉川の決戦ですが、実は越前側にはこれに関する資料が殆どないのが実情です。朝倉始末記も織田勝利を記していません。(朝倉始末記は前半は朝倉氏の越前支配を正当化するために偽造がありますが、後半は滅び行くさまを描いているわけで、特別虚偽を記載する理由がありません)
何れにしても、越前側に敗北の認識が無かったことは事実だと思います。もちろん多くの犠牲者が出、今も一乗谷にはこの時に討ち死にした者の五輪塔が残っていますが、犠牲は織田方も同じで結局は小谷城に攻め込むことはできない状況でした。
川中島でないですが、緒戦は朝倉・浅井有利、後半は織田・徳川有利に展開したというのが実情ではないでしょうか。
江戸時代の徳川方の記録のように、徳川の奮戦で危機に陥った織田軍を助け、朝倉・浅井大敗北に終わったのであれば、直後義景自身が大将で、大敗北を喫したはずの主将である朝倉景健を先鋒にして大軍を湖北に展開し、信長軍を敗走させ、京に進出するなどできない相談だと考えるからです。

27 もう少しやさしく 府中人 - 2002/12/08 00:51 -
この掲示板少し難しくなりすぎ
もう少しやさしくしてどうでしょうか
普通の人、書きづらいです

26 姉川の決戦 ともゆき - 2002/12/07 23:19 -
ともゆきです。
先日はおこたえ有難うございました。
管理人さんは「朝倉景健」のなかで
>織田・徳川の優勢ではあったもの、織田軍も犠牲が多く小谷城に攻め込む余力はなく、決着しないまま、両軍とも兵を引いた。
と、姉川の決戦に引き分け説をとっておられるみたいですね。
どうもいろいろな分野で反対意見をお持ちのようで、
書き出しますと
1)朝倉氏は守護に任ぜられず守護代
2)孝景17か条はもっと後世の作で孝景作ではない
3)景行天皇を祖は偽作で但馬の単なる豪族出身
4)朝倉館跡は五代義景だけの館跡で他は別
などなど、それはそれで参考になるのですが
姉川の決戦を引き分けと見る根拠は何ですか
織田・徳川軍大勝は江戸時代の家康神格化
のための後世の作り話との話は私も聞いた
覚えがあるのですが、管理人さんの根拠は何ですか

25 Re:朝倉家の子孫達は? 管理人 - 2002/12/05 23:21 -
敦賀郡司家殿、はじめまして。
ご来訪を歓迎申しあげます。
朝倉氏の系図は何種類かありますが、誤伝、誤字が多く解読するのがなかなか難しいとされています、
その中で、記述の正しさでは近世初期の慶長年間に成立した「森田本」、特徴的なところでは朝倉氏の子孫が作成したとされる「永光寺本」、義景時代に作成されたため義景の事績が記載されていない「壬生本」が興味の持たれるところです。

さて子孫ですが、小田原朝倉氏(正景・政元)と越前朝倉氏は無関係ではないかと思っています。もちろん但馬朝倉氏からたどれば何か繋がりがあるかも知れませんが、少なくとも孝景の八人の男子、およびその周辺に祖とされる秀景に該当する人物は、残念ながら見当たりません。
徳川忠長の家老となって掛川2万5000石を授かった朝倉氏は、戦国四代宗淳孝景の弟で謀反に失敗した景高が逃亡後、その子在重が駿河に身を寄せたことはご指摘のとおりだと思います。(なお景高嫡男景鏡は母が烏丸冬光女であったため、越前に残り最後に義景を裏切ることになる)
朝倉氏の織田信長との抗争では宗家ならびに刀禰坂で戦死した以外は、家臣団も含めは大半生き延びたわけですが、その後の一向一揆と信長再侵攻で滅亡に追い込まれておりますが、孝景以前の庶家は三反崎氏、向氏、松尾氏、中島氏などは系譜はわからないもののその後も生き延びたと考えるのが妥当のようです。2.26事件の松尾伝蔵もその松尾氏の流れです。
さて、孝景以降の庶家でその後の死没が確認されていないのは織田城主の朝倉景綱がいます。一向一揆で逃亡したきりです。それから系図では滅亡当時子供であったため書かれていませんが、朝倉景紀が孫にあたる景みつの二歳の嫡子(七郎)をつれて川島に隠居しましたが、この孫の七郎はその後が不明です。もう一人景紀には成人に達していない三番目の子貞紀がいましたが、こちらはその後母方の姓福岡に改め加賀前田家臣青木氏に仕えています。
土佐の朝倉友景がどの系統に属するのかは、いまのところ不明です。

24 朝倉家の子孫達は? 敦賀郡司家 - 2002/12/02 19:44 -
はじめまして。
越前守護朝倉家の子孫について調べようとしております。
有名どころで三家ほどあると思うのですが、
肝心の出自(誰の流れか)や経緯、
また子孫のその後などわからないことが多いため
ここに書きこみしたしだいであります。
現在わたしがわかっている範囲のものを書きこみます。
よろしければ管理人さんの知っている範囲のことを教えていただければ
ませんでしょうか?よろしくおねがいします。

「朝倉友景」(??〜??)儀左衛門
豊永朝倉氏の祖。天正元年朝倉滅亡後阿波の細川掃部頭のもとへ亡命。
長宗我部→山内と経て孫清景のとき商家。(土佐朝倉町)
「朝倉宣正」(1573〜1637)藤十郎。筑前守。在重の子?。
1590年小田原征伐の徳川秀忠に出仕。関が原にも従軍し「上田七本槍」
に列する。のち徳川忠長の家老となって掛川2万5000石を授かるが、主君に連座し蟄居。土井氏預かりとなる。
「朝倉政元」(1546〜1629)彦四郎。右京進。政景の子。政景の父秀景は初代孝景の男。後北条→豊臣秀次と仕えたが秀次切腹により浪人。徳川家康に召出され、紀伊頼宣→水戸頼房。息子政明の代で旗本。

23 お千代の記念碑 府中人 - 2002/11/24 23:30 -
こんばんは、
今日の福井新聞に、猫家さんと管理人さんの
やりとりにでてくる、お千代(千代保)こと寿福院の
生誕碑が武生市高木町に建てらた記事がでています。
今度見に行ってきます。
まあ、朝倉氏にはあまり関係ないですけど
それではまた

22 ありがとうございました 名無しの学生 - 2002/11/16 00:30 -
管理人さん、お返事ありがとうございました。
私もこれから少しづつ勉強したいと思います。
これほど詳しいサイトはほかにないと思いますので
今後もお邪魔させておただきます。

21 Re:講義より勉強になります 管理人 - 2002/11/14 20:23 -
名無しの学生の学生さん、はじめまして
朝倉氏が守護に補任されたとする京側の資料はありません。
朝倉氏が自分が守護に任ぜられたと主張しはじめるのは、延徳三年の斯波氏との相論です。じつは、斯波氏との相論は長享年間にも起きています。このときも斯波氏は「朝倉氏が越前を押領して返さない」と幕府に訴えたわけですが、この時は義政が大御所として存命であり、斯波義寛も軍勢を引きつれ尾張から近江に出張し、京の義政の御所にも出仕していす。したがって朝倉氏は「将軍義政から守護に任ぜられた」などとはおくびにも出していません。この時に主張すれば、義政存命ですからはっきりするのに、斯波義寛にも出仕するなどして斯波氏の攻勢をかわして、義政が没したら突然いいだしたのです。
それよりも以前、文明七年二月まだ孝景が存命の時、甲斐氏が西軍から東軍に帰順し、斯波氏に連れられ将軍義政のところに出仕しましたが、この時甲斐氏は、越前守護代復帰を強く訴えました。しかし、義政は越前守護代は朝倉氏に与えたものとして、甲斐氏に遠江守護代のみ安堵しました。当然越前・尾張・遠江守護は斯波氏が前提での話しです。
文明三年に朝倉孝景が守護に補任されたとする出張にはどうしても無理があり、自分が守護でないこと、斯波武衛家から独立したいからこからこそ新守護に鞍谷義俊を推戴したわけで、守護に任ぜられておればそんなことはする必要がなかったわけです。
朝倉氏研究者の中には、朝倉氏が守護に任ぜられていないと、その価値が下がるみたいに思っている人がいて、朝倉氏守護説を頑強に主張する人がいますが、私は逆で、守護代であるのに、100年にわたって事実上の国主として越前を実力支配したことこそ、戦国大名朝倉氏のすごいとこだと思うのです。
細かい話何れサイトに掲示したいと思います。

20 講義より勉強になります 名無しの学生 - 2002/11/12 20:20 -
はじめまして
大学で東洋史専攻ですが、
日本の戦国大名にも関心をもっています。
拝見して大変勉強になりますので、
書き込みさせて頂きました。

ついでに、質問させてください。

管理人さんは朝倉氏は守護ではない
との立場にたっておられますが
そすしますと、将軍義政から守護職に補任されたとする、
朝倉氏の文書は偽ものと
解釈しておられるのでしょうか。
是非ともご教示下さい

19 Re:もうひとつ質問させて下さい(自刃の地) 管理人 - 2002/11/02 22:55 -
ともゆきさん、再度のご訪問有難うございます。
自刃の地(山田庄六坊賢松寺)は正確にはわかっていません。
ただ、当初義景に入った犬山山麓洞雲寺から、景鏡の居城亥山城の中間に位置すると考えられます。景鏡は万が一の時に防御を理由に義景を誘い出したわけですから、より亥山城に近くなければ怪しまれますし、洞雲寺の後ろは犬山ですから逃亡の恐れがあったわけで、完全に囲むために、平野部にあったと考えるのが合理的です。
伝承に残っている曹源寺(大野市明倫町)はこの条件を満たしています。
ただ、この説は、寛政十二年にこの寺に墓が建立され、文政五年に現在地に移転したという事実から生まれたものか、曹源寺が賢松寺の跡地に移転してきたため、この地に墓が建てられたのかはなお検討する余地があります。
また、一部では現在の寺町付近ではないかと主張する人もおります。
山田庄と六坊を手がかりにすれば解明できないことは無いと思いますが、もう少し時間がかかりそうです。
それではまた。

18 もうひとつ質問させて下さい ともゆき - 2002/10/30 00:00 -
管理人さん、ご返事ありがとうございます。
もう一つお願いします。
朝倉義景が自刃した大野の地、
賢松寺はどこにありますか

17 Re:質問させてください(朝倉館) 管理人 - 2002/10/28 14:16 -
はじめまして、ともゆきさん。
ご質問の朝倉館ですが、現在、遺構として残っているのは五代義景の館跡です。
初代孝景の館跡は上城戸の外にある一乗小学校付近です。
2代から4代の館あとは、城戸がいつ造られたのかにも関係し、個人的に推測はしていますが、根拠があるわけでもないので、また機会があれば私見としてサイトにアップしたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。

16 質問させてください ともゆき - 2002/10/27 00:08 -
ともゆきと申します。
ひとつ質問させて下さい
朝倉館というのは戦国朝倉氏初代から五代までの
館ですか?
それとも義景だけの館ですか
今ひとつハッキリしません。
よろしくお願いします。

15 Re:秘訣 管理人 - 2002/10/25 15:11 -
府中人さん度々のお越し有難うございます。
別に秘訣があるわけではありませんが、現地に行った時には古老がいれば聞いいてみたり(但し、後世のことが刷り込まれて記憶がすり変わっている場合がかなりありますので、暫く話し込んで矛盾点を指摘して、聞き出す努力が必要です)
また、町内会報などが目についたら、思い出関係の記事がないか目を通す努力をしています。
思わぬ収穫にありつけることがあります。

14 秘訣を教えて下さい 府中人 - 2002/10/18 23:58 -
武生(府中)に住んでいて、自分では相当の歴史好き
と思っていましが、鞍谷氏といい、
猫家氏とのやりとりにでてくる
上木新兵衛、小幡九兵衛など
どうして管理人さんはそんなことまで知っているんですか
郷土史にもでてこないと思うのですが...
調査や勉強の秘訣があれば教えて下さい

13 Re:ありがとうございます(小幡氏について) 管理人 - 2002/10/18 13:03 -
猫家さん、重ねての来訪有難うございます。
ただ、ご質問の件は、議論が朝倉氏からはずれますし、私も小幡氏については調査したことがありませんので、わかっている範囲でお答えします。
母親が再嫁した小幡氏は越前とは無関係と思われます。当然朝倉氏とも関係なく、越中から没落した椎名氏関係者で利家に仕官し小幡九兵衛を名乗っています。この系列から金沢城代も勤めた宮内長次(記憶あいまいです)がでています。
武田軍学の小幡氏とも無関係と思います。
いずれにしましても越前には小幡氏に関する資料はありません。
詳細なことは、加賀藩や前田家サイトには資料があるのではないかと思いますので、そちらで調査されることをお勧めします

12 ありがとうございます 猫家 - 2002/10/17 23:04 -
くわしく説明していただきありがとうございました。管理人さんはとてもものしりですね。また質問してもよろしいでしょうか。お千代の母が再婚した小幡氏というのは朝倉家臣なのですか?それとも利家の家臣なのですか?武田二十四将の小幡氏とは関係ありますか?

11 Re:はじめまして(猫家さんようこそ) 管理人 - 2002/10/17 20:55 -
猫家さんはじめまして。
ようこそ。当「戦国大名越前朝倉氏」サイト、のみならず一乗谷遺跡までもお越し頂きまして有難うございます。
さてお尋ねの件ですが、お千代(寿福院)は異説もありますが、猫家さんのおっしゃるとおり、朝倉旧臣上木新兵衛の娘とされています。上木新兵衛の支配地は江戸時代の小浜藩飛地の高木村(現武生市)とされており、現在でも在所は上木姓の方が多数おられます。一乗谷に住む家格ではなかったと考えられています。利家が府中にはいって間もなく新兵衛は死没し、母は小幡氏に再嫁し、異父弟二人が前田利常に仕え、兄は一乗谷滅亡後府中に移転した経王寺を再建し、姉は武生に逃れて商人となった浅井長政弟に嫁ぐなど、彼女の周辺は誠に賑やかです。但し、上木新兵衛の出自などは一切不明です。
山崎右京もはっきりしませんが、朝倉氏の重臣の山崎氏につながる人物(庶家)かもしれません。山崎氏は内衆とよばれる直臣で、戦国初代孝景以来の忠臣で朝倉始末記にも度々顔をだします。宗家は当然一乗谷城戸の内で、義景時代は朝倉館の真ん前に屋敷を構えていました。信長との戦いで最後刀禰坂の戦いで敗北するとき、殿を勤め義景を疋田に逃がしたのは山崎一族です。庶家もかなりあったと思われますが、庶家の事績は充分にはわかっていません。
充分なお答えにはなっていませんが、また何かあればご連絡下さい。

10 Re:愛王丸の場所よくみつけましたね 管理人 - 2002/10/17 19:40 -
府中人さん、ご返事遅れましてすみません。
いつも激励書き込み頂きまして有難うございます。
府中人さんが「ウロウロ」された場所から50mぐらいでしょうか。
ただ、愛王堂は少しはなれています。
いまでも地元の人は、七月に地蔵まいりで供養されておられるそうです。
また何かあれば書き込み下さい

http://isweb44.infoseek.co.jp/area/okhome/index.html

9 はじめまして 猫家 - 2002/10/15 01:08 -
先月、一乗谷を見学しました。いいところでした。埼玉からわざわざいったかいがありました。質問があるのですがよろしいでしょうか。金沢藩三代藩主利常の生母千代の父は朝倉氏の家臣上木新兵衛、母も同じく朝倉家臣山崎右京の娘ということなのですが、上木新兵衛と山崎右京はどのような人物なのでしょうか?一乗谷には住んでいたのでしょうか?

8 愛王丸の場所よくみつけましたね 府中人 - 2002/10/09 00:07 -
こんばんは、ごぶさたです
愛王丸(義景息)終焉の地よみました。
随分前のことですが、私もその場所をさがして、
帰る地区の神社付近をウロウロしたことがあります。
でもどうしてもわかりませんでした。
ありがたかったです。
それではまた

7 ありがとうございます 管理人 - 2002/09/23 20:28 -
たくろんさんようこそ!
ご参考に供していただければ幸いです。
まだまだコンテンツ不足ですが、1年ぐらいかけて朝倉氏に関する総合サイトに仕上げたいと思っています。
朝倉氏の学習だけでなく、朝倉遺跡の実訪・観光にも役立てればと考えています。おおげさにいえば、「日本のポンペイ」ですから、机上学習だけではなんとも「もったいない」と思うからです。
お気づきの点、リクエストなどございましたら、どこまでお応えできるかわかりませんが、ご連絡ください。

6 素晴らしいページですね たくろん - 2002/09/23 20:16 -
大学の夏休みの宿題のテーマとして、一乗谷を取り上げることに
なりまして、来週提出しないといけないので、切羽詰っていますが、
Yahooで検索してまいりました。

何かと分からないことも多いですが、朝倉氏や一乗谷について
勉強させてもらっております。情報を参考にして活用しつつ、
宿題を仕上げていきたいと思います。

5 ようこそお越し頂きました 管理人 - 2002/09/17 13:09 -
「霊陽院さまFC」管理人のklu.rig.lamさま
ようこそお越し頂きました。
klu.rig.lamさんのサイトTOPの将軍義昭の絵は、非常に印象に残る絵ですね。
私はあまりそういうセンスがありませんので、うらやましい限りです。
今後、将軍の越前での活動についてもとりあげていく予定ですので、また是非お立ち寄り下さい。よろしくお願いします。

4 はじめまして! klu.rig.lam - 2002/09/16 21:09 -
管理人様はじめまして。
「霊陽院さまFC」管理人のklu.rig.lamと申します。
メールを頂戴して、写真を拝見しました。
義景さんが義秋をまねいて宴を開催した庭園跡など、よく残っているのですね!
とても興味深く拝見いたしました。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwiy9889/

3 鞍谷氏について 府中人 - 2002/09/14 00:01 -
鞍谷もわが武生市の守備範囲です。
全然知りませんでした。
朝倉氏時代に守護がいたなんて、
皆知っているんでしょうか

2 公開しました 管理人 - 2002/09/07 20:54 -
戦国大名越前朝倉氏公開しました。
府中人さん、別に秘密ページではありませんのでご理解下さい
朝倉氏に関してどんどん討議してください
http://isweb44.infoseek.co.jp/area/okhome/index.html

 

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