越前若狭歴史回廊

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147 おひさしびりですM・Aさん 管理人 - 2004/09/25 17:20 -
M・Aさんおひさしぶりです。
よほど朝倉氏一族の詳しい人でも、徳川氏に仕えた在重とその子宣正が忠長の切腹に伴って蟄居したところまでが限度でしょうから、その後の重孝以降は興味深々ですね。
このサイトの訪問者の熱い視線を浴びることは間違いないですね。今後とも続編を、是非お願いします。

146 108以来10ヶ月ぶりです。 M・A - 2004/09/24 12:05 -
この10ヶ月図書館等で先祖の系図の信憑性を調べていました。管理人さんが110で家系図の開示をできればしてくださいとのことでしたので、武士を捨てる迄の範囲までを載せます。(因みにその後医者になりますが、捨てるに至った経緯は父(多分代々口伝していると思われる)から聴いたことがあります。)形式は縦書きを横にするので少し変わると思います。()内は傍注で送り仮名も同じ大きさにしました。和暦のあと西暦を書きました。あと孝景・義景については省きます。それら以外は基本的に原文のままです。
景行天皇後胤 日下部朝臣 貞景(号、下野守 朝廷ニ仕ヘ文明三年=AD1471年始而越前国ヲ給、北之庄ニ住ス歿後号、英林寺、)−景高(号、右衛門大夫)−有重(号、河内守 父景高舎弟孝景ト父祖ノ遺領ヲ争ヒ兄弟之間不和ナリ、依之有重越前之国ヲ退去シ駿州中村式部少輔一氏ニ仕エ阿部郡ヲ領ス、一氏死去之後、家康公に奉仕、元和六年=AD1620年行年七十一才ニ而卒ス)−宜重(号、藤十郎 天正十三年=1585年秀忠公ニ従フ、信州真田合戦之時生年十六才ニ而抜群之高名アリテ感状ヲ給ハル、天下平均之後、泉州境之政所之卿ヲ蒙り知行一万石ヲ給リ忠勤ス其ノ後一万五千石之後加恩アリテ遠州掛川之城ヲ給ハリ、駿河大納言忠長郷被附諫臣之處忠長郷御生害之後蒙御不審知行被召上蟄居)−重孝(号、仁左衛門 慶長十九年=1614年之冬大阪動乱ノ砌、牧野右馬允手ニ属シ大阪ニ而抜群之高名セシ故御乕陳之後御書番ニ被召出其后御膳番司ニ成受領石見守其后御使番ヲ勤、寛永十六年=1639年江戸町奉行ニ成忠勤病死)
長くなるのでとりあえずここで中断します。景高が争いに敗れ有重が新たに家を起こしたものの宜重の時潰され重孝がまた起こし…といった感じです。次回は没落(一乗谷落ちが光から影なら、この没落は影から闇へ)を書きます。

145 鳴動したと思います 府中人 - 2004/09/14 22:13 -
私は当然鳴動したと思いますよ。
ただ、雨音の強さと濁流の音にかき消され
誰も聞き取れなかったのが残念です

143 Re:一乗谷行ってきました 管理人 - 2004/09/12 22:25 -
府中人さんこんばんは
豪雨の後、実は何回か私も見に行っています。
罹災からまもない時期の写真も記録として残してありますが、あまりそのような写真を掲載するのもどうかと思いますので、公開予定はありません。
さて、一乗谷遺跡、復元町並みもボランティアの皆様の懸命な活動でいち早く復旧できたようです。
府中人さんの書かれているとおり遺跡自体は奇跡的に何とも無いですね。諏訪館跡と中御殿跡との道路の部分に流れていた谷川が大きく崩れ大変な状況でしたが、摩訶不思議、諏訪館遺跡には全く影響しておりませんね。
諏訪館跡から英林塚へいく道は現在も復旧しておりませんが、英林塚自体は周辺も含めてこれまた何の影響も受けていません。
朝倉館跡は後輩の山肌が一部崩れましたが、これもすぐに取り除かれ、館跡の損傷はなかったみたいです。
影響を受けたのは、遺跡資料館と復元町並みという後世に創られた施設、というのがなんだか皮肉な結果です。
越前に危機がせまると鳴動するといわれる英林塚ですが、今回鳴動したのかどうかが気になるところです。
それではまた

142 一乗谷行ってきました 府中人 - 2004/08/27 00:09 -
管理人さんご無沙汰です
豪雨被害が大きかった一乗谷行ってきました。
遺跡は大丈夫なのは管理人さんが書かれている通りですが
復元町並みは無料公開されていものの
展示関係は床をめくってあるため
展示されていません。
それでも思ったほどの被害は無いみたいですね
ご報告まで

141 40,000ヒット達成御礼 管理人 - 2004/07/27 23:12 -
本日40,000ヒットを達成しました。
この間熱心にアクセス頂いた皆様に御礼申し上げます。
朝倉氏と一乗谷関連の綜合サイトとして今後も内容に充実に努めたいと思っておりますので、変わらぬご支援をお願い申し上げます。

140 Re:一乗谷遺跡心配 管理人 - 2004/07/26 20:56 -
青学生さん、お久しぶりです。
私も行ってみたのですが、この前は天神橋のところから、もう「通行止」で一般車は通していなかったですね。
今は通れるのかもしれません。
是非行って見てきたいと思っています。
一乗谷近辺の方、情報がありましたら提供をお願いします。

139 一乗谷遺跡心配 青学生 - 2004/07/23 21:50 -
ご無沙汰しております。
福井の豪雨大変でしたね、実家へ電話したところ自宅は大丈夫だったが、美山や一乗谷のほうはヒドイとのことでした。
8月には帰ろうと思ってますが、朝倉氏遺跡の被害はどの程度だったのでしょう。

138 ご期待下さい 管理人 - 2004/06/29 20:12 -
府中人さんお久しぶりです。
このところ手の放せない仕事がありまして、更新が遅れ気味ですが、年初に予告しましたとおり朝倉氏と武田氏の抗争(支援?)を7月に公開予定です。
例によって活字版が先ですが、サイトには字数制限のある活字版をかなり加筆して掲載する予定ですのでご期待下さい。
今後ともよろしくお願いします。

137 更新が減ってきているかんじですが 府中人 - 2004/06/27 21:52 -
こんばんは、府中人です
最近、朝倉氏や武田氏サイトの更新が減ってきている感じですが
思いすごしでしょうか
別にせかしているわけではありません(念のため)

136 東京のアサクラ様 りんご - 2004/05/16 09:42 -
はじめまして。
私実家ご近所のお寺のご住職も戦国時代以前のあるお殿様の家系(大内氏家臣)です。
毛利氏に強制的に真宗寺院のご住職とされたとの記録があります。
お名前がアサクラ氏でお寺ならほぼ確かだと素人は思いますが。
是非、そのお寺の紹介歴史をHPなどでご紹介いただきたいです。
旅行が楽しくなります。

135 Re:はじめまして 管理人 - 2004/05/08 20:08 -
東京のアサクラさん、はじめまして。
このサイトを開設して以来、関係者の子孫筋の方々からご連絡を頂いております。アサクラさんは福井県出身で、朝倉氏の子孫に当たられるとのことで、こちらこそよろしくお願いします。
実家がお寺ということでしたら、記録の他に家伝も伝わっておろうかと思いますので、是非おりを見て、調査結果をご披露頂ければと思います。
今後ともこの、サイトともどもよろしくお願いします。

134 はじめまして 東京のアサクラ - 2004/05/07 21:32 -
管理人様、はじめまして。私は福井県出身で現在は東京に住んでいる朝倉です。
自分自身、朝倉氏の子孫であることは知っていましたが、最近やはり先祖のことを知っておくべきだと思い立ち、色々と調べているうちにこちらにたどり着きました。
内容が濃いのでまだ全部を見られていませんが、すばらしいサイトだと思いますのでこれからゆっくりと拝見させていただきたいと思います。
私の父の実家がお寺で、戦いに敗れた士が出家して始まったらしいのですが、実際は誰の血筋を引いているのか私自身まだ分からない状態です。
実家には記録があると思いますので、その辺も合わせてこれから知っておきたいと思っています。
しかし、いくつか調べ始めると自分が知っていたよりもとても魅力的な人物であり一族であることが分かり、ますます興味を持つと共に、このサイトをはじめ多くの皆さんに興味を持っていただいていることにもちょっぴり誇らしげな気持ちがしています。
私がお聞きするのも変かも知れませんが、色々と教えていただきたく、まずはごあいさつまで。
では、よろしくお願いします。

133 Re:ありがとうございます 管理人 - 2004/05/03 10:45 -
報恩院が水本坊を名乗った以外はなかったのではないかと思います。もちろん一時的に別称を名乗ったことはあってもあくまで一時的なものでしょう。
このあたりは京都の寺社仏閣に詳しいサイトで調査されることをお勧めします。
粟屋氏は「若狭武田氏」サイト(http://wakasa.k-server.org/)で扱っていきたいと思いますので、よろしければそちらのサイトにもお越し下さい
それではまた

132 ありがとうございます りんご - 2004/04/30 10:55 -
参考になりました。
ちなみにこのページとは関係ないのですが、報恩院=水本坊として、他のご門跡は何坊を名乗られていたかご存知ですか?少し興味があります。が、一人ではここまで調べようがありません。
私も実は、この粟屋地区に興味をもっているのです。
何で調べたものかと思案中です。

131 Re:醍醐水本報恩院有雅僧正 管理人 - 2004/04/28 22:10 -
りんごさん、早速のご披露有り難うございます。
「醍醐水本報恩院」ですが、醍醐寺には「醍醐五門跡」と呼ばれる三宝院・金剛王院・報恩院・理性院・無量寿院がありますが、このうち「報恩院」は「水本坊」とも呼ばれており、「報恩院」を強調するため「水本」を付けたのだと思います。また、有雅僧正はこの他チョコチョコ写本を残していたように思います。有雅僧正に限らず当時の人は筆まめでしたから。何れにしましても朝倉氏とは直接関係しないと思います。
閑話休題
「三次市粟屋」、安芸(若狭)粟屋氏、うーん何となく惹かれてしまいますね。また詳細な情報があればご開示ください。
私もいつか安芸の武田氏事蹟を訪ねてみたいと思っています。
それではまた。

130 私は広島市在住です りんご - 2004/04/25 20:48 -
失礼しました。私は今現在広島市在住です。福井には是非観光希望です。

129 三次市です りんご - 2004/04/25 20:44 -
広島県の三次市粟屋という所です。山を結構もっていました。私の父は管理の難しい土地をもらうのを辞退しましたので、現地との往来が今では皆無です。この粟屋という地名も武田氏の被官の粟屋氏と関係したものかどうかわかりません。朝倉始末記の補注で、「日下部系図」○醍醐水本報恩院有雅僧正本、とあります。この水本ってなんのことでしょう。一方的にお聞きして申し訳ありません。

128 水本氏について 管理人 - 2004/04/22 21:45 -
りんごさん、はじめまして
「戦国大名越前朝倉氏」サイトにお越し頂き、有り難うございます。
どなたからも書き込みが無いみたいなので、管理人の私からコメントさせて頂きます。
木瓜紋は朝倉氏の出身である但馬養父郡の日下部氏と深い関係があるといあわれておりますが、朝倉氏一族、被管人、関係者では、残念ながら水本氏はおらないと思います。少なくとも私の記憶には(あまりあてにはなりませんが)ありません。
新資料の「一乗録」はまだ検討しておりませんので、断定はできませんが.......
閑話休題
北陸や近畿に木瓜紋は多いですが、りんごさんはお住まいはどちらでしょうか。
差し支えなければ次回書き込み時に、ご披露頂ければと思います。それではまた。

127 木瓜紋について りんご - 2004/04/16 21:30 -
はじめまして。父の姓が水本です。以前、母方の先祖についていろいろ教えていただいた方から、父方の水本の方が興味ありますね。木瓜紋ですか?と当てられました。木瓜紋で検索すると朝倉氏にあたりました。朝倉一族と水本氏は関係ありますか?ぶしつけですが、ご存知の方よろしくお願いいたします。

126 30,000ヒットを達成しました 管理人 - 2004/03/27 09:31 -
3月26日、30,000ヒットを達成しました。
この間アクセス頂いた皆様にに御礼申しあげます。
現在「若狭武田氏」サイトに「応仁の乱」を掲載しています。斯波氏や朝倉氏とも関係が深いので参照頂ければと思います。
今後の予定ですが、若狭武田氏との攻防戦をてがける予定です。
今後とも変わらぬご支援をお願いします。

125 Re:元亀元年の戦い 管理人 - 2004/03/23 23:06 -
宗滴ファンさんお久しぶりです。
「元亀元年の戦い」をお目通し頂き有り難うございます。
野田福島の戦いと志賀の戦いはたしかに一般の方にはあまり知られていませんね。でも信長ファンの方は大概ご存知ではないかと思います。ただこのあたりは「信長公記」にもごまかしがあるため認識が違い、戦いそのもが軽視されているきらいは否めませんね。
将軍義昭の追放にしても、その後の義昭との和睦交渉や、義昭の子供を「将軍若君」として推戴したことなどは顧みられていない感じを持っています。
それではまた

124 元亀元年の戦い 宗滴ファン - 2004/03/20 00:13 -
元亀元年の戦い「天下は朝倉殿に」をじっくり読ませて頂きました。
これまで、宗滴が死んだから姉川の戦いをはじめ織田軍に
勝てるはずがない、と思ってましたが、認識があらたになりました。
でも志賀の戦いってあまり知られてませんね。
信長ファンが封印しているのでしょうか?

123 ようこそちどりさん 管理人 - 2004/02/06 21:39 -
ようこそちどりさん、はじめまして
お父様が越前出身ということで、今後ともご贔屓にお願いします。
丹生郡立町郷は現在鯖江市になっており、福井市に接する一帯です。実は私の自宅は福井市の最南端で、立町郷の北隣付近にあります。
「朝倉始末記」はすべてPDFで公開を予定しておりますので、今後ともお立ち寄りください。

122 はじめまして ちどり - 2004/02/05 19:42 -
楽しく拝見させて頂いております。「朝倉始末記」はすべてPDF公開なされる御予定でしょうか?御挨拶も早々に大変恐縮ですが、是非お願いしたいと存じます。
私は東京出身なのですが、父方の出身が福井です。以前よく父から聞かされていた話が最近気になるようになり(年齢かな・・・笑)、ぼちぼち祖先調べをしております。どうやら丹生郡立町郷という所の中世以来の惣百姓家で、戦国期は朝倉氏の領民。魚住景固の知行地だったようです。
こちらでお見受けする壮々たる武将の御子孫とは立場(?)が違いますが、やはり朝倉氏の実像には興味が尽きません。ことに朝倉時代の領民支配はどのようなものだったのか、気になります。「福井県史」には越前の太閤検地が非常に厳しいものだった旨のことが記されていますが、これは裏を返せば、それ以前、特に朝倉氏の治世は相対的に寛大なものだったということでは?と思うのですが・・・。
いきなり長々と失礼致しました。今後とも勉強させて頂きたいと存じます。益々の御発展をお祈りします。

121 Re:朝倉氏所領の件 管理人 - 2004/01/23 22:08 -
中野さんはじめまして、いまのところどなたからも回答がないので、管理人の私からコメントさせていただきます。
中野の地名は旧越前だけでもかなりあります。
お問い合わせの趣旨は
(1)朝倉氏が貞治年間に越前で取得した越前七ヶ所の地頭職のうちのひとつ「中野郷」はどこなのか
(2)朝倉氏の一族である中野氏の拠点である「中野郷」はどこをさすのか
の2点ではなかろうかと推測します。
まず、(1)ですが、吉田郡中野郷(現福井市中ノ郷町)と今立郡中野郷(現鯖江市中野町)とする2つの見解があります。越前宇坂庄(一乗谷)一帯七ヶ所が付与されたと理解すれば前者になり、現在までの多数意見です。古代から開けていた地域で九頭竜川の左岸になります。
しかし、地頭職を得てその地域に入りこんでやがて中野氏を名乗るようになったと考えると後者になります。鯖江市中野町に「中野館」伝承があり、浅水川の左岸の地域となります。

120 朝倉氏所領の件 中野 忠夫 - 2004/01/20 14:01 -
朝倉氏所領 中野郷 は 現在の地名で どこですか
一乗谷滅亡時 越後に逃れた子孫

119 浅井屋敷 管理人 - 2004/01/16 15:17 -
府中人さん、遅れましたが、本年もよろしくお願いします。
「元亀元年の争乱」お読み頂き有難うございます。
このあと、姉川の戦い、「野田・福島の戦い」、さらに信長生涯における最大危機といわれる「志賀の陣」に入っていきます。
さて、浅井屋敷ですが、朝倉氏遺跡見学には欠かせない石仏の盛源寺の南側になります。「浅井殿」「浅井前」の字名も残っています。また機会があれば紹介したいと思います。
それではまた

118 本年もよろしく 府中人@応援団 - 2004/01/08 23:37 -
管理人さん新年早々25,000ヒット達成おめでとうございます。
20,000から25,000までは早かったですね。
そこで一つ質問ですが、「元気元年の争乱」の記事のなかで
浅井氏の館が一乗谷にあったとされていますが
どのあたりでしょうか
いってみたいと思います

117 ようこそ越前屋さん 管理人 - 2003/12/31 11:03 -
はじめまして、越前屋さん
朝倉始末記の全文は現在入手できるものとしては
福井市市史資料編2「古代・中世」があります。
全文掲載されています。
口語訳としては「朝倉始末記(日本合戦騒動叢書)」藤居正規著(勉誠社)があります
越前屋さんは福井県内ですから図書館で借りることも可能ですね。
そのほかこれまでに出版された「始末記」については整理してサイトに掲載しますので暫くお待ち下さい。

116 朝倉始末記 越前屋 - 2003/12/29 18:09 -
坂井郡の住民、越前屋と申します。
前からサイトを拝見しておりましたが、初投稿です。
管理人さんは、現在「朝倉始末記」を画像で掲載されておりますが
活字ではどのような本が出版されているのでしょうか
読んでみたいと思います。
教えていただければ有難いのですが

115 別にありません 管理人 - 2003/12/26 23:26 -
府中人さん、本当にご無沙汰です。
元旦には「元亀争乱」の一部を公開予定しております。「天下は朝倉殿に」が副題です。
分館開設の予定はありませんが、本館「越前若狭歴史回廊」斯波氏のコーナーをリニューアルする予定をしております。
その際にはまたご意見をお寄せ下さい。
それではまた。

114 ご無沙汰です 府中人@応援団 - 2003/12/25 20:11 -
管理人さん、ご無沙汰しています。
このところ更新が減ってきている感じですが、また何か新しい企画(分館)でも始める計画ですか。
よろしければ教えてください。

113 はーいばればれでしたか 浅利 - 2003/11/26 23:27 -
そうでしたか。恐れ入ります。
敦賀、橋本長兵衛鷹画派の祖、初代長兵衛が私の先祖
です。ですから400年前は福井というか越前敦賀に
大変お世話になりました。鷹絵の研究もいまのところ
順調ですが、資料はこれでいいということがありません。
来年は富山から一乗谷、岐阜飛騨まで足を延ばします。
すでに貴HPをリンクさせていただきました。
今後ともどうぞよろしくご教示ください。

112 今後ともよろしく 管理人 - 2003/11/26 22:03 -
浅利さん、浅利さんのサイト以前から拝見しておりました。「秋田の浅利」のお名前で「曽我派」についての書き込みですから当然主宰者の浅利さんではと思いました。曽我派の研究は越前ではいまのところ殆どおこなわれていないと思います。「福井県史」全5巻で「曽我派」としてたった一回出てくるだけです。宗誉や紹祥といった人物名はともかく、号の「蛇足」くらいはでてきてもいいと思いますが。まあ、門外漢の私がこんなことをいうのも何ですが....
相互リンクこちらこそよろしくお願いします。

111 早速のご返事 浅利 - 2003/11/25 17:12 -
早速のご教示ありがとうございます。
唐突な質問に戸惑われたと存じます。
おっしゃる通り、直庵は堺にあり、天正元年
朝倉氏没落と共に現大野市の金森氏に曽我一派
は支持したようですが、その曽我氏絵派の研究
でさえ、不明な点が多いようです。
ですから曽我氏そのものの親子関係も一般論
に留まる五代なのでしょう。
大変とんでもない質問を失礼しました。
勉強になりました。
ちなみに私も下記の拙HPを主宰しています。
相互リンクお願いできれば幸いです。
http://asari-akt.hp.infoseek.co.jp/index.htm
大変ご教示ありがとうございました。
曽我蛇足についても勉強してみます。

110 ようこそ 、M・Aさん、秋田の浅利さん 管理人「 - 2003/11/24 22:20 -
ようこそM・Aさん、秋田の浅利さん、はじめまして。
ちょっと所要が重なり、ご挨拶が遅れました。
M・Aさん、戦国四代宗淳孝景の弟景高、子在重から曽祖父までの系譜の概要を差し支えない範囲でご開示頂ければと思います。まだご一族の方が他におられるかも知れません。是非ご検討下さい。
秋田の浅利さん、どなたもコメントしておられないので絵画に門外漢の管理人から若干コメントさせて頂きます。
越前朝倉氏の絵師曽我派の研究は、連歌などの文芸面ほど進んでおりません。私も絵画には疎いのでこれまで殆ど調査したことがありません。また、越前に資料は少ないと思います。(先般県内の大野市が曽我派の屏風絵を公開しておりましたが)
ただご質問の婿養子の件ですが、誰が誰のもとに婿養子に入ったのかいま一つはっきりわからないのですが。
直庵の祖父(宗誉)が大覚寺義俊を迎えての義景主催曲水宴で歌を詠んでいますが、其の子紹祥までは越前と関係しても、孫の直庵はもう越前朝倉氏との関係は薄いのではないでしょうか。

109 ご教示ください 秋田の浅利 - 2003/11/19 22:54 -
朝倉氏といえばお抱え絵師の弟子に曽我直庵、二直庵父子が
おりますが、その曽我氏に関する資料はないでしょうか?
一説によれば、曽我氏は鷹絵を習うために婿養子になった
と聞きましたが、詳しく知っておられる方にお願いします。
よろしく。

108 先祖調査中 M・A - 2003/11/03 22:53 -
家系図によると私は在重から十六代下った子孫だそうです。家にある家系図に記されている景高や在重をネットで調べていたら、このサイトを見つけました。家系図によると私の曽祖父は在重嫡流のようです。先祖を調べるのもおもしろいです。

107 御礼 管理人 - 2003/10/20 20:09 -
おかげさまで20,000ヒットを達成しました。
昨年の九月上旬に公開して以来、一年と1.5ヶ月かかりましたが、この間アクセス頂いた皆様、また激励のメールなどをお送り頂いた皆様にあらためまして感謝申しあげます。
今後の予定ですが、TOPページにも予告しましたが、姉川の戦いの後、義景自身が出馬して京に進出、織田軍を窮地に追い込む「元亀争乱」にとりかかります。
更新ペースは過去一年のように、頻繁には無理ですが、もう一つの分館「若狭武田氏」と連動して若狭攻防戦も手がけますのでご期待下さい。

106 すばやい対応有難うございます 府中人 - 2003/10/02 00:01 -
「朝倉宗滴話記の紹介、解説をぜひお願いします」
といったら、早速の公開有難うございます。
管理人さんも超ご多忙とお察し致しますので
解説はしばらく我慢します。
それより、このサイトのチャット作りませんか
毎週1回、決められた時間に開設なんて
興奮してしまいます。

105 sakoさんようこそ 管理人 - 2003/10/01 08:54 -
sakoさん、ようこそ神戸からお越し頂きました。
歓迎申し上げます。
鞍谷姓はそんなに多くはなく、「鞍谷氏」の事は越前でも一般の方は殆ど知らないと思いますので、親戚のおじさんのお話は十分拝聴するに値すると思います。
ちなみに、鞍谷氏の祖は渋川流斯波義廉息で朝倉時代の越前守護家です。斯波氏は足利将軍家に対して、家系を自慢をするほどの名族で、名字不記載の家柄でした。
その斯波氏と父母を同じくする同族が渋川氏です。
鞍谷氏のその後の消息は不明のままですので、是非家伝を詳しくお聞かせ下さい。

102 神戸から sako - 2003/09/26 12:41 -
皆さん・管理人さんはじめまして
よく研究されたHPを見つけ興味深く拝見し感心してます。
実は苗字が鞍谷と希少でルーツ探してました。
家系について親戚のおじさんの知るところでは信長に討伐された福井の朝倉氏のところから落ちてきて現在の神戸地区に屯田兵として開墾にきたのが始まりだそうです。興味持ちネットで検索し最近こちらにHITしました。大層便利ですねー
私も歴史にはうといのですがやはり自分のルーツは興味深く調べてみたいと思いこれからもこちらにも参加させていただきますのでよろしくお願いします。

 

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