越前若狭歴史回廊

    現在掲示板は停止していますが、過去のログについて公開しています
   



247 残念ですね 府中人 - 2005/12/28 12:51 -
今春から更新が遅れ気味でしたが、お仕事が多忙だったのですね。残念ですが来年秋までお待ちします。
ただ、その間にアクセスが減りはしないかちょっと心配です。
先月に商工会議所ビルに行ってきました。企画展拝見しましたがやはり近代より中世が、私にはいいですね。
私の府中(武生)も市町村合併で越前市に名前が変わりこちらも寂しいかぎりです。


246 お知らせ 管理人 - 2005/12/15 20:56 -
私事で大変恐縮ですが、私の仕事の都合により来年10月まで当サイトの更新を停止させて頂くことになりました。
ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。
本館「越前若狭歴史回廊」は月1回の更新を行いたいと思います。
なお、掲示板は情報交換のために閉鎖は致しません。(管理人からの回答は10月まで休止となります)
私あてのメールは常に読んでおりますので、何かあれば、ご連絡下さい。
へびさん お久しぶりです。刀禰坂の戦いの碑はありません。戦士した武将の墓(碑)はあります。
一乗谷炎上( 信長軍の越前進攻と朝倉氏の滅亡)
http://fukuihis.web.fc2.com/war/war090.html
を参照下さい。
それでは10月までよろしくお願いします。


245 お聞きしたいのですが へび - 2005/11/20 18:57 -
刀禰坂に刀禰坂の戦いの碑かなにかあると聞いて行ってみたのですが見つかりませんでした…刀禰坂にはこういったものは本当にあるのでしょうか??またその場所を知っている方はぜひ教えてください><よろしくお願いします


241 Re:彦根藩の典医 ど素人 - 2005/10/30 21:21 -
朝倉南蔵様、
ど素人です、ご返事、ありがとうございます。私も祖母に聞いてみます(といっても、もう百歳近いのですが・・・)。


240 Re:彦根藩の典医 朝倉南蔵 - 2005/10/25 21:16 -
「ど素人」様。
久しぶりに見ました、ど素人の朝倉南蔵です。
貴重な情報ありがとうございます。
父親の話だと、福井今庄の在家の近所の娘さんが、その典医の家に奉公に行っていて、その縁で典医の娘さんが我が在家に嫁いできたとのことです。
典医の家が、どういう家なのかは私もよく知らないので、今の状態では何ともお答えのしようがありません。


239 彦根藩の典医 ど素人 - 2005/10/23 17:24 -
朝倉南蔵さま、
まだ見ておられるでしょうか、彦根藩の典医のことですが、私の祖母はその直系の子孫と聞いています。典医といっても複数いるのでしょうから、朝倉さまのおっしゃっている家とは異なるかもしれませんが。
管理人さま、
朝倉氏と関係ない投稿内容かもしれません、お許し下さい。


237 教えて下さい。 歴史の旅人 - 2005/10/03 21:07 -
こんばんわ、我が家にある巻物の家系図の中に「女子で正願寺、妻、越前府中、住、一向宗」と書かれた部分があるのですが、正願寺、越前府中等、についての情報をおしえていただけないでしょうか。時代は江戸時代初期です。


236 管理人 殿 小田原急行 - 2005/09/20 10:15 -
早速お調べ頂き有り難う御座いました。
今までの研究を出版されていたらお教え下さい。


235 ありがとうございました 歴史の旅人 - 2005/09/19 07:05 -
管理人さん、始めまして、お尋ねに対しての回答、ありがとうございました。福井は、私の会社の本社があり、2年前にそちらへ行ってきました。永平寺とか東尋坊など観光名所は巡りました。もう一度、ゆっくりと史跡めぐりしたいなと思います。


234 ようこそ戦国大名越前朝倉氏へ 管理人 - 2005/09/17 08:23 -
小田原急行さんはじめまして
中野氏については壬生本朝倉氏系図に中野能登殿(愚谷)以下かなり詳しい系図を伝えますが、その事績は殆どわかっていません。史料にも登場しないと思います。
その本拠とされる中野郷は足羽なのか鯖江なのかもまだわかりません。
これについてはこの掲示板121を参照下さい。
念のため再掲します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
中野さんはじめまして、いまのところどなたからも回答がないので、管理人の私からコメントさせていただきます。
中野の地名は旧越前だけでもかなりあります。
お問い合わせの趣旨は
(1)朝倉氏が貞治年間に越前で取得した越前七ヶ所の地頭職のうちのひとつ「中野郷」はどこなのか
(2)朝倉氏の一族である中野氏の拠点である「中野郷」はどこをさすのか
の2点ではなかろうかと推測します。
まず、(1)ですが、吉田郡中野郷(現福井市中ノ郷町)と今立郡中野郷(現鯖江市中野町)とする2つの見解があります。越前宇坂庄(一乗谷)一帯七ヶ所が付与されたと理解すれば前者になり、現在までの多数意見です。古代から開けていた地域で九頭竜川の左岸になります。
しかし、地頭職を得てその地域に入りこんでやがて中野氏を名乗るようになったと考えると後者になります。鯖江市中野町に「中野館」伝承があり、浅水川の左岸の地域となります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
歴史の旅人さんはじめまして
嶋田氏の祖が楠氏の子孫とする伝承は地元にもあります。ただ私も元史料にあたったわけではありません。
「朝倉義景のすべて」p265にちょっとでてきますね。
嶋田将鑑については本館の「新越前若狭城跡考」に記載しています。
今後ともよろしくお願いします。


233 二宮朝忠は一条忠頼の息子 甘利太郎晴彦 - 2005/09/16 01:46 -
源氏系図によれば正式に二宮朝忠は、一条忠頼の息子
長男は行忠、兄弟は飯室禅師と秋通、朝忠の4人ということになる。この系図は後に上条上杉や畠山、東條吉良、西条吉良や多くの武家を興したり摂取して独立していった。
主家本家は甘利家である。
秋通は香宗我部長宗我部の祖で後の武田勝頼が大崎玄蕃と改名した折りにいっしょに紀州徳川の吉宗を擁立した。長男行忠は、甘利氏の祖


232 お尋ねします。 歴史の旅人 - 2005/09/15 23:39 -
始めまして、南北朝の動乱のとき、常陸の瓜連城で北朝方の佐竹氏と戦い、敗れた、楠木正家のことを調べています。ひとつの説として、越前平泉寺に正成の弟又は甥とされる正利という人物がおり、この正利の次子が島田を称し・・・とありまして
平泉寺興一揆合戦之事の第八巻に名の見える島田将監がつながりがあるのかな・・・などと推測をしています。何か関連のある情報をお持ちでしたら教えていただけませんでしょうか。


231 おたずね 小田原急行 - 2005/09/05 16:20 -
朝倉家臣 中野氏について 教えて下さい


230 新潟県の朝倉残党 小田原急行 - 2005/09/05 16:17 -
新潟県の弥彦近辺に 越前浜有り 朝倉残党が舟で逃げ延びた
朝倉ゆかりの密教寺院有り(愛王丸伝説も)、、残党はその後、 越後干拓に尽力明治を迎える。


229 二宮は一条忠頼の兄弟でしょう bonbonsinsi - 2005/08/25 20:22 -
http://page.freett.com/keizusoko/keizu/seiwa_genji/genji_seiwa6.html
朝忠なる同年代は、頼朝が旗上げした時の二宮朝忠しかいませんね。正しくは清和源氏です。清和源氏名乗らず忍者となったのでしょうね。
本家は行忠の甘利家になりますが、長宗我部、上杉も摂取してます。吉良東條や山田、山本など全国に養子していった一条忠頼の孫たちです。
佐々木や中村
秀吉に


227 Re:こちらにも掲示板あるんですね 管理人 - 2005/07/26 16:10 -
乾徳さん、ようこそ戦国大名越前朝倉氏へ
あるんですよ!こちらにも!
もともと観光振興ではじめたサイトだったのですが、管理人の性分でしょうか、いつのまにやらこのようなサイトになってしまいました。
乾徳さんのように甲斐氏や二宮氏のこととなるとますます当初の目的が離れていってしまいます。
閑話休題
甲斐氏や二宮氏や取り扱った書籍は残念ながらありませんね。ただ甲斐氏についての京や遠江での事績など最近はすすんできたのではないでしょうか。
千福氏はご子孫がおられるようです。私はお会いしたことがありませんので家伝の詳細はわかりません。
いつか機会があれば、いままででわかっていることは簡単にまとめたい思っていますが、今年は仕事が混んでうますので、随分先になりそうです。
これに懲りずにこちらにも遊びに来てください。


226 こちらにも掲示板あるんですね 乾徳 - 2005/07/22 02:50 -
主サイトの掲示板にも増して専門的な内容で,全ての書き込みを楽しく拝見させてもらいました。
最近,朝倉氏だけではなく,敵対した甲斐氏や二宮氏などにも興味を持つようになったのですが,越前の国人衆について詳しく書かれている資料はないのでしょうか。甲斐氏も二宮氏も,実名の分からない人がたくさんいますし(甲斐近江守,同八郎五郎,同左京亮,同法華院,二宮信濃守,同左近将監=安兼?,同駿河守=種数?など),千福氏や千秋氏などの事跡もよく分かりません。
このあたりのことが書かれていて,素人でも簡単に入手(閲覧)できる資料がありましたら,是非教えていただけないでしょうか?


225 7万ヒット達成御礼 管理人 - 2005/07/13 19:26 -
お礼が遅れましたが、おかげさまで先日7万ヒットを達成することができました。
この間熱心にアクセス、また掲示板に書き込み頂きました皆様に御礼申しあげます。


224 彦根藩の記述 朝倉南蔵 - 2005/07/03 17:38 -
彦根藩の記述は,pp90〜91の「朝倉氏の再興」のくだりに,「(溝江長逸)その子孫は彦根藩士の家として続いている。」とあります。
うちの親父に確認したところ,「寺の近所には朝倉姓はいない」とのこと。今の住職(親父の従兄弟)は,郷土史家みたいな人なので,一度じっくり話を伺いに行ってみたいと思います。
・寺の成り立ち
・宗安寺という名前の由来
・(江戸時代の)親戚筋の動向
・彦根藩の典医との(婚姻関係を結ぶような)繋がり
・村との繋がり
・その他リクエストがあれば
とはいえ,小生も歴史に少し興味がある程度の単なるど素人なので,どこまで確信に迫れるかどうかは分かりませんが,後ほど,ご報告いたします。


223 朝倉南蔵さんはじめまして 管理人 - 2005/06/28 19:28 -
朝倉南蔵さんはじめまして、府中人さんお久しぶりです。
福井県嶺北地方には朝倉姓の方は各市町村におられますが、結構寺院の関係者が多いようです。一部はたしかに朝倉氏と関係があるやに伺っています。
彦根藩に仕えた朝倉一族としては溝江氏が知られていますが、溝江氏の系譜は未だ不明な点もおおいようです。
府中人さんの発言にありますが「朝倉義景のすべて」の中に、彦根藩のことってでてきましたかね。
私もちょっと記憶していないですが...。
福井県の朝倉姓のみなさん、この機会に是非ご発言下さい。


222 Re:今庄と彦根の宗安寺について 府中人 - 2005/06/23 20:12 -
朝倉南蔵さん、はじめまして、府中人と申します。
武生在住です。
このサイトの管理人さんには大変お世話になっております。応援団を自称しています(非公認です)
残念ながら、今庄の宗安寺は訪問したことはありませんが、朝倉姓のかたは南蔵さんのとこ以外でもおられるのですか?
大変興味が惹かれます。
「朝倉義景のすべて」は私も購入しましたが、彦根藩に朝倉の一族が仕えていたちの記述は見逃しました。どのあたりに載っていますか。
何にか質問ばかりで申し訳ありません。
これからもよろしくお願いします。


221 再送:今庄と彦根の宗安寺について 朝倉南蔵 - 2005/06/18 22:54 -
申し訳ありません。
丸数字を使ったら,?になったので再送します。
はじめまして。
(本姓は朝倉で,下の名前「南蔵」はハンドルネームです)
私の祖父が,旧・今庄町にある宗安寺(真宗大谷派)の出身で,その寺には私も1回だけ伺ったことがあります。
話によると,(1)その寺は江戸初期から続いているらしく,(2)江戸末期には彦根藩の典医の娘を娶って(=私の祖父の祖母ぐらい?),輿入れの際の駕籠が残っている,とのこと。
(1)について:
 福井今庄で,姓が朝倉で,江戸初期から続いていることから,私の家は,越前朝倉氏の流れを汲む一族?ではないかという疑問
(朝倉の姓をいつから使用しているか,寺の経歴については検証が必要ですが。。。)
(2)について:
 3年前から2年間に彦根に住んで,赤門で有名な宗安寺があることを知り,何か関係が深いのかなー程度に思ってました。
 4月に「朝倉義景のすべて」を読んで,彦根藩に朝倉の一族が仕えていた云々とあり,ますます繋がりがでてきて,ますます興味がわいてきたこと。
 しかも最近,神奈川県秦野市で仕事をしているので,波多野氏との繋がりもあり,より興味深いこと。
(3)彦根藩出仕の朝倉一族について:
 私は,現在も滋賀県(彦根ではないが)に住んでおり,彦根藩に仕えた朝倉一族について,その詳細を知りたい。
以上3点の疑問・要望について,ご存知の方がいましたら,お知らせください。


219 Re:うろ覚えでなんですが 管理人 - 2005/06/16 19:43 -
とむそんさん、はじめまして。ようこそ「戦国大名越前朝倉氏」へ。歓迎申し上げます。
さて、徳川忠長の家老となって掛川2万5000石を授かった朝倉氏は、戦国四代宗淳孝景の弟で、謀反に失敗した景高が逃亡後、その子在重が駿河に身を寄せますが、その在重の子宣正のことです。
この点については、24、25、108、110、146、147を参照下さい


218 うろ覚えでなんですが とむそん - 2005/06/16 03:02 -
朝倉氏は、どの系統かはっきりしませんが、幕藩体制化に駿河大納言の家老か何かしてませんでしたでしょうか?その後改易になって、旗本か何かやっていたような?


217 すっかりご無沙汰しました 管理人 - 2005/06/08 20:24 -
すっかりごぶさたしました。
仕事の都合で1ヶ月もの間、サイトにアクセスしないままに過ぎてしまいました。
この間アクセス、また更新を期待されていた方にお詫びします。
今週末には一部更新を予定しています。
ただ、今年は仕事の予定がかなり入っておりますので、これまでのような更新は無理な状況です。
中島さんはじめまして、中島氏については203の中島さんが発言しておられます。205も参照してください。これからもよろしくお願いします。
通り掛かりさん、はじめまして。
宮増丸関係は毛利文書にでてくる史料ですね。朝倉氏庶流鳥羽氏の系統とされています。
朝倉氏滅亡後朝倉氏再興計画は複数あったとされますが、一番確実な方法として足利将軍(鞆幕府)に近侍したのだと思われます。他に情報がございましたらまた提供下さい。


216 朝倉の生き残り 中島 - 2005/05/21 19:09 -
私は親戚のおじさんから中島家は、朝倉の子孫だと言われました。いまだに信じられないのですが、朝倉は今も名字を変えて生きているんだそうです。しかし、本当にそんなことがありうるんですか。教えてください。


215 いつも拝見しています 通り掛かりの者です - 2005/05/11 04:13 -
朝倉宮増丸とはどんな人ですか?
某所でこんな書き込みがあったので報告しておきます
-----------------------------------------------------------------------
朝倉与三某。宮増丸。???〜???
  高景末裔の朝倉庶流の一族。
  主家滅亡後武田刑部大輔信実の元で足利義昭と一緒に行動していた。
  朝倉家再興を企図し1578(天正6)年頃、佐々木源兵衛尉を使者に毛利家へ力添えを依頼。
  三人の弟もいたらしいが、彼らのその後の消息は途絶えている。
-----------------------------------------------------------------------


212 大津のYKさん 有難うございました 府中人 - 2005/05/04 18:48 -
大津のYKさん 有難うございました。
今年是非チャレンジしてみます。
今後ともよろしくお願いします。


211 Re 壺笠山について 大津のY.K - 2005/05/03 01:29 -
府中人さん、はじめまして。お便りありがとうございます。
壺笠山ですが、上の方まで車が通れるほどの道幅はあるのですが、入ってすぐの所に鎖で入れないようになっているので、徒歩での登山(40分程度で登れました)をお勧めします。
京阪電鉄穴太(あのう)駅近くの平子谷から登られる場合、
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.52.5.4N35.3.13.2&ZM=10
又は、鎖の手前の
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.51.54.9N35.3.19.4&ZM=10
辺りに車を止められるスペースがあります。
四ツ谷川沿いに登って行き、青少年広場を越え、橋を渡り、しばらく行くと分岐があり、ここでは8時の方向へ登ります。少し行くと、明るい部分になり、少し下り始めた辺りで右側に登り口があります。小さい案内板があり木にテープが付いていたと思うので、右側を見ていればすぐ分かると思います。ここまでは、車でも通れるほどの広い道ですが、ここからは人しか通れない山道です。少し行くと崖崩れの箇所がありますが、2,3年前に比べて通り易くなっているので大丈夫でしょう。壺笠山の裏側をしばらく進むと分岐があり、左に曲がるといよいよ壺笠山の山頂です。山頂の手前で少し石垣を見ましたが、私の目的は山頂に行き、景色を見ることだったので(見晴らしはあまり良くない)、探して見るともっとあるかも知れませんね。
分かりにくい文章ですみませんが、どうぞ参考にして下さい。
そして良い登山をお楽しみ下さい。
参考:国土地理院−地図閲覧サービス
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=52354655


210 大津のY.Kさんへ 壺笠山について 府中人 - 2005/05/02 17:33 -
大津のY.Kさんはじめまして。府中人と申します。
こちらのサイトと管理人さんには大変お世話になっております。
その影響を受けまして、昨年は山城の一乗谷城を登りました。
今年は、浅井氏の小谷城と朝倉氏が築いた壺笠山城に登る計画をたてています。
小谷城は問題ないと思いますが、壺笠山はどのあたりまで車で入れますか。
下の書き込みでは「中腹あたりまでは広い道で、分岐後、途中から細い道」となっていましが、分岐点までは車で行けますか。また「登り口は少し分かりにくい」とのことですが、初めてでもわかりますか。
質問ばかりで恐縮ですが、教えてください。


209 壺笠山 大津のY.K - 2005/04/27 21:32 -
23日午後、大津市の壺笠山(421m)に登ってきました。
壺笠山へは、穴太駅前の平子谷から登りましたが、頂まで40分程度と手軽に行ける上、頂付近に桜が咲いていたので久しぶりに行ってきました。
中腹あたりまでは広い道で、分岐後、途中から細い道に入りますが、その登り口は少し分かりにくいです。
崖崩れの部分を通って(数年前に比べて通りやすくなっていました)、細い道を登って山頂に行きました。石垣も少し見えました。頂は眺めが悪いですが、近くに桜が咲いていたので花見をして帰りました。


208 RE:壺笠山について 管理人 - 2005/04/24 16:16 -
大津のY.Kさんはじめまして。ようこそ「戦国大名越前朝倉氏」へ
壺笠山に登られた由、お時間ございまいしたら是非登山レポートをお寄せ下さい。私は、麓付近探索として、穴太から麓を通る林道で古墳を少し過ぎたあたりまで行きましたが、トラックが道を塞いでいたため引き返しております。
壺笠山は京阪穴太駅の真西にあたり、もたて山はその壺笠山の北の山でで坂本から比叡山へのケーブルカーが通っていますね。
撮影は坂本の「もたて」→「壺かさ」→「青山」→「宇佐山」と複数日にわたって写していきましたが、後から整理しますと、山の専門家以外には遠景写真はどれもよく似た感じです。もう一度行程と撮影時間をチェックしてみますね。
また何かお気づきの点がございましたら、お知らせ下さい
↓坂本「もたて」、穴太「壺かさ」付近の地図
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.4.3.905&el=135.51.25.950&la=1&sc=4&CE.x=252&CE.y=480


207 壺笠山について 大津のY.K - 2005/04/23 22:50 -

管理人さん、はじめまして。今日、久しぶりに壺笠山の山頂に登って来た者です。壺笠山で検索してこちらのページを見つけました。歴史を知ることができて大変良かったです。ただ、1つ誤りを見つけたので報告します。こちらのページにある「壺笠山」とある写真は壺笠山じゃなくて「もたて山」ですよ。
http://fukuihis.web.fc2.com/war/war082.html


206 お返事、ありがとうございました。 中島 - 2005/04/22 02:02 -
管理人さん。こんばんわ。
お答えありがとうございました。中島城などという、お城もあったのですか。
なんだかますます調べてみたくなりました。
家系伝説を伝えている総本家の今の当主はまだ若い人ですが、私自身は普段、ほとんど付き合いがありません。でも、うちの父は一家付き合いのことで、時々接触があるので、今度、詳しいことを聞いてくれるように頼んでみます。もし、何か新しいことがわかりましたら、お知らせします。
いずれにしろ、歴史のことはまだまだ不勉強でして、こちらのサイトでいろいろ学ばせていただきたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。
「朝倉氏追想」の動画、素敵ですね。私はまだ、福井県へ行ったことは無いのですが、いつか、祖先のことを胸に抱きながら、訪れてみたいと思いました。


205 返事が遅れ申し訳ありません 管理人 - 2005/04/18 21:22 -
ちょっと所要で返事が遅れてしまいました。申し訳ありません。
中島さんはじめまして、
英林孝景以前の朝倉氏の庶流としては、阿波賀氏、北庄氏、勝蓮華氏、東郷氏、中島氏、鳥羽氏、中野氏、松尾氏、三段崎氏、向氏、松尾氏などがあります。
中島城主であったとされる中島氏も英林孝景以前の庶流で、景康(周防守)を祖としますが、その系統と事績は不明のままです。メールでも構いませんので是非家伝の開示をお願いします。中島城の城跡は確認されていませんが、足羽川左岸に中島の地名そのものは今も残っています。推測ですが、黒丸城と同じく湿地帯で囲まれた城ではなかたっかと思っています。
holsteinさん、はじめまして
貞景の母は織田孫左衛門女ですが、この孫左衛門が誰にあたるのかは、解かっていないと思います。敏広や敏定に結ぶつける説もありますが、いまのところ両名が孫左衛門を名乗った史料はありません。私は別人だと思っています。
織田氏の系図は不明な点が多くて解明は困難と思いますが、貞景の母とはいえ、氏景には別の正室があったことが確実視されることから守護代家(宗家)の女とは考えにくいですが、もともと朝倉氏(孝景・氏景親子)が西軍であったことを考えれば、嫡流である守護代織田氏(敏広)に繋がる女性ではあろうと推測しています。
へびさん、ご無沙汰しております。
中島さんにも家紋の話がでてきますが、家紋については、私も専門外ですので、それぞれ専門のサイトで調査されたほうが確実かと思いますので、そちらで調査し、何かわかりましたらまた情報提供をお願いします。
宗滴ファンさん、おひさしぶりです。
何れ時間があれば、宗滴の戦いの特集を組んでみたいと思いますが、あまりあてにはしないで下さいね。「越前朝倉氏と加賀一向一揆との抗争」の最終回は近日アップします。
所要のため皆さんへのご返事が遅れたましたが、今後とも当サイトをよろしくお願いします。


203 祖先が朝倉家の家臣と聞いているのですが・・・ 中島 - 2005/04/13 19:41 -
管理人さん、はじめまして。私は埼玉に住む中島という者です。
私の住む地区では江戸時代の初期の頃から、十軒ほどの中島家があって(今となっては血縁関係など無いも同然なのですが)現在も「一家(いっけ)付き合い」と称して冠婚葬祭時には“準親戚”のような付き合いを続けています。

中でも総本家は長屋門の残る立派な家構えで、その家の家系伝説によると、祖先は越前朝倉家の家臣で、信長に滅ぼされた後、この地に流れ着いて土着したのだと言われています。

江戸期には正式に名字帯刀を許されていたのは、おそらくその総本家だけではなかったかと思うのですが、分家の分家である私の家も含めた一族全体が、百姓身分にもかかわらず、かなり堂々と中島姓を名乗り続けていたらしいことが過去帳や墓石などからうかがえます。
(藩領ではなく天領で、旗本の知行地か何かだったらしいので、あまり身分のことでうるさく言われなかったせいかもしれません)

私が総本家の家系伝説を知ったのは最近のことで、よもや祖先が、遠い越前から来たなどとは思いもしなかったのですが、朝倉家の家臣だったというのは本当なのかどうか、ちょっと調べてみたくなり、こちらのサイトに辿り着きました。

朝倉家の支族にも中島という一族があったということですが、何か関連があるのでしょうか?

ちなみにわが一族の家紋は「丸に抱き沢潟」です。



200 はじめまして holstein - 2005/04/10 10:59 -
2000年に某大学史学科を卒業した者です。当時の私のテーマは敦賀の景豊の乱でした。
まあ、景豊の乱だけではページ数が全く足りませんでしたので、いろいろ変な文章も書きましたけど。
しかしこのサイトはものすごい充実ぶりですね。
長禄合戦からの紹介も大変詳細で、説得力があります。
景豊の乱以外はほとんど研究しませんでしたので、とても勉強になります。
ここまでの文を書ける方だときっと専門の学者さんなのではないかと・・。
さて、以下はこまかい話で申し訳ないんですが。
貞景の母は織田孫左衛門尉女ですが、川村昭一氏が執筆した戦国大名閨閥事典(第二巻)では織田敏定女ということになってました。
そうなると長享・延徳の訴訟では祖父と孫が争っていたということになります。
どうもこの状況には違和感を感じるんですが・・。普通ですか?
いや、どうも普通なような気がしてきました・・。
 

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