明智神社(周辺観光4) (伝)明智光秀屋敷跡

福井市東大味

 本能寺の変で信長を討った明智光秀と越前の関係は浅くない。
 光秀は、美濃の可児郡明智城を本拠としていた土岐明智氏の庶流とされているが、その前半生は不明で、明智城を斎藤氏に落とされた後、文武両道を学び、鉄砲指南役として越前の朝倉義景に仕えたとされている。

 朝倉氏の一族や重臣の屋敷は、朝倉館がある上城戸と下城戸に挟まれた城戸の内だけでなく、その周辺にも配置されていた。東大味は、文殊山榎峠から一乗谷に入る朝倉街道の大手道が通っており、近くには最近まで石畳の朝倉街道の名残が見られた。当時、家臣や重臣の屋敷が配置されており、光秀にもその一角に屋敷地が与えられたのであろう か。

▼一乗谷に向かう道にでている看板 ▼旧朝倉街道跡

 その後、一旦は一乗谷に来た足利義昭とともに織田信長のもとへ赴き、上洛を援けたが、今度は信長と朝倉義景が対立、越前で朝倉氏に仕えたこともある光秀の心境は窺い知れないが、複雑なものがあったと推測される。

 ▼西蓮寺
 それを裏付ける資料が地元の故刹「西蓮寺」に残っている。
 西蓮寺には全国で唯一といわれる柴田勝家の木像が安置されていることで有名だが、ここには柴田勝家・勝定から西蓮寺の衆宛に出された二通の安堵状も残されている。それには「この寺者等は早く帰って住居しろ。もし非難する者あらば知らせよ。蹴散らしてくれる。」とある。
 天正三年、信長の越前再侵攻は凄惨を極め、数万の人々を殺戮したとされているが、光秀は自分がかつて住み過ごした東大味の人々の安否を気遣い、この地を戦禍から防ぐ為に柴田勝家・勝定兄弟に依頼し、この安堵状(制札)を出させたと推測されている。

 本能寺の変で逆臣となった光秀であるが、当時の明智屋敷跡に住む三軒の農家が光秀公の秘仏をひそかに守り続け、明治19年に非難・中傷に耐えながら敷地内に祠を建て秘仏を奉った話は、最近になって全国に知られるようになった。
 現在は小規模ながら明智神社として奉賛会も設立され、地区住民によって狭い敷地内に東大味歴史文化資料館も設置(無料)されている。
 

地図はここです


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初出:福井商工会議所報「Chamber」2003年6月号
 

   

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