朝倉氏遺跡・上城戸の南の三叉路に一乗小学校がありますが、そこからもう少し
南へ足を延ばすと、左手に神明神社が見えてきます。
中条流剣法の達人、富田勢源の道場があったとされる場所です。
宮本武蔵の伝記ともいうべき「二天記」で、佐々木小次郎は、「岩流小次郎と云剣客あり、越前宇坂の庄、浄教寺村の産也」とし、続けて「同国の住富田勢源が家人に成て、幼少より稽古を見覚え、長なるに及で、勢源が打太刀を勉む。勢源は一尺五寸の小太刀を以て三尺余の太刀に対して勝つことを為す。小次郎常に大太刀を以て、勢源が短刀に対して粗技能あり、猶鍛錬して勝利を弁ずるに、高弟各小次郎が太刀さきに及ぶ者なし」と紹介されています。
「二天記」によれば、佐々木小次郎の師は富田勢源(とだ
せいげん)とされていますが、そうすると、慶長十七(1612)年の「巌流島の闘い」では小次郎が70歳近くの高齢になってしまい、これではつじつまが合わないので現在では、小次郎の師は、勢源の弟子である鐘巻自斎(かねまきじさい)であったとされています。
もちろん、伝承に推測を重ねたものです。
ただ、富田勢源は実在の人物で、朝倉氏に仕え、中条流剣法の達人、小太刀の名手として良く知られています。彼は目を患い、ほとんど失明に近い状態になったため、若くして家督を弟の景政に譲り、出家して勢源を称していました。
永禄三(1560)年、美濃に赴いた際、関東の剣豪梅津某に仕合を申し込まれ、これを断わるものの美濃の戦国大名斉藤義龍のたっての頼みで仕合にのぞみ、梅津某を軽く討ち果たし、義龍を大いに喜ばした話は有名です。
鐘巻自斎の生涯はよくわかっていませんが、弟子には有名な剣豪伊藤一刀斎がいます。
約400年余り前の朝倉氏時代に、越前宇坂の庄浄教寺村(一乗谷)で富田勢源が道場を開いていたことは間違いないことで、地元には今もその道場跡といわれるところと、菩提寺であったとされ
、石仏で有名な盛源寺が残っています。
場所は、一乗谷の朝倉館跡前の路から南進して西新町の中央部あたりになります。
道場跡は現在水田になっていますが、周囲の石積みのつくりをみると、なんともそれらしい雰囲気が漂ってきます。
▼道場跡の水田の石積み |
▼道場跡敷地 |
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朝倉氏遺跡の見学が終わってから、息抜きにチョッと足を延ばしてみても悪くはないでしょう。合わせて、近くにある盛源寺の石仏をじっくりお参りしてはどうでしょうか。
▼盛源寺(朝倉氏遺跡見学には欠かせない) |
▼盛源寺への道(石仏が並ぶ) |
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